光榮山法性寺。芝生村の人齋藤忠兵衞が開基檀那
法性寺の概要
日蓮宗寺院の法性寺は、光榮山と号します。法性寺は、芝生村の人齋藤忠兵衞が開基檀那となり、法性院日在(元和7年寂)が元和2年(1616)に開山したといいます。
山号 | 光榮山 |
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院号 | - |
寺号 | 法性寺 |
本尊 | 十界曼荼羅・日蓮聖人像 |
住所 | 横浜市保土ケ谷区星川2-8-18 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
法性寺の縁起
法性寺は、芝生村の人齋藤忠兵衞が開基檀那となり、法性院日在(元和7年寂)が元和2年(1616)に開山したといいます。
新編武蔵風土記稿による法性寺の縁起
(下星川村)
法性寺
村の中央にあり、日蓮宗甲州久遠寺末、光榮山と號す、開山法性院日在元和七年十月十三日寂せり、客殿六間に八間巽向なり、本尊三寶祖師の像を安ず、又七面の像あり、長三寸許、これは甲斐國七面山に安置する所の像を模せしものなり、影現七面と號す。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿」による法性寺の縁起
法性寺
位置
法性寺は、光榮山と號し、保土ヶ谷區星川町千二百十九番地にある。境内は四百八十八坪。日蓮宗總本山身延山久遠寺末で、寺格は平僧六等である。
沿革
元和二年の創立で、開山は法性院日在、開基檀那は芝生村の人齋藤忠兵衞である。往古、當寺境内に近く大日山蓮華寺と云へる眞言宗の一宇が在つた。此寺の僧某、日在の法門を聽き、深く日宗に歸依し、文祿の頃、遂に日蓮宗に改めた。元和二年、日在は今の地に一宇を創建し、開基檀那より奉納した日法上人自作の祖師尊像と、比企能員の手寫と稱する紺紙金泥の法華經一部八卷を奉安し、光榮山法性寺と號した。其後文政十年二月、第二十四世日華の代、祝融の災に罹り、堂宇燒失して、悉く什寶・舊記等を失つた。同十三年四月、第二十五世日義に至り、堂宇の再建を遂げた。則ち今の本堂・庫裡が其れである。維新前は同村鎭守杉山神社・坂本村高根社・藏王社の別當を兼務して居た。大正十二年九月一日の震災に大破したが、同年修覆を加へた。
本尊
本尊は十界之本尊、竝に宗祖日蓮大菩薩の像である。(「横浜市史稿」より)
法性寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿」