大誉山見光寺。保土ヶ谷の住人、茂平夫妻(道意)が開基
見光寺の概要
浄土宗寺院の見光寺は、大誉山珂山院と号します。見光寺は、保土ヶ谷の住人で熱心な浄土宗の信者、茂平夫妻(道意)が開基となり寛永6年(1629)に創建、深川靈巖寺第三世大誉珂山上人(寛文11年1671年寂)が開山したといいます。
山号 | 大誉山 |
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院号 | 珂山院 |
寺号 | 見光寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 横浜市保土ケ谷区岩間町2-140 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
見光寺の縁起
見光寺は、保土ヶ谷の住人で熱心な浄土宗の信者、茂平夫妻(道意)が開基となり寛永6年(1629)に創建、深川靈巖寺第三世大誉珂山上人(寛文11年1671年寂)が開山したといいます。
新編武蔵風土記稿による見光寺の縁起
見光寺
下神戸町と今井川との間にありて、門は海道の方岩間町の内に出づ、。浄土宗にて江戸深川霊巌寺の末、大誉山珂山院と號す。開山大誉珂山寛永6年起立す、此珂山は寛文11年9月5日寂せり、本尊は弥陀の坐像長2尺3寸、客殿6間半に5間半すべて南向の寺なり(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿」による見光寺の縁起
見光寺
位置及寺格
見光寺は、大譽山珂山院と號し、保土ヶ谷區岩間下町一千二百四十五番地に在る。境内は四百八十三坪。東京市深川區靈巖町淨土宗道本山靈巖寺の末寺で、寺格は能分二等である。
沿革
寬永六年の創立で、開山は深川靈巖寺第三世珂山上人、開基は道意である。寺傳に云ふ、當驛の人茂平夫妻、深く淨土に歸依し、靈巖寺第三世珂山上人の許に詣でて、尊崇厚く、信心頗る堅固であつたが、遂に剃髮して名を道意及び貞壽と改め、上人から彌陀の尊像を授與せられ、之を捧持して歸鄕し、今の地に庵室を結んで安置し、千日千夜の修行を期した。然るに其滿願の夜、彌陀尊像から光明が輝き、恰も白畫の如くであつたので、道意は驚き馳せて、師の許に到り、其奇瑞を告げたところ、師曰く、是れ如來因緣の地であるから、汝早く其地に、一宇を建立せよ。我、行いて衆生を濟度しようと。道意、師の意を體して歸り、直に造營に著手し、日ならずして功成つた。此に於て本寺の隱居所となし、淨別院の號を移して、一寺とした。更に大譽山珂山院(珂山上人の名に因る。見光寺尊像より光明輝くを見るに因む。)と改め、珂山上人を開山とした。是れが當寺の濫觴であると。上人の此地に住すること傳はるや、四輩群集、念佛稱名の聲、山谷に響き、寺門恰も市をなすに至つた。寬文十一年九月五日、珂山上人は當寺に於て示寂した。それより星霜百有餘年を經て、堂宇傾落し、靈地も荒廢に委するに至つた。當寺第十四世蟠譽觀龍上人、痛く之を歎き、再建を企て、明和五戊子年、よく堂宇の再建を遂げ、中興の業を奏した。第二十三世漸譽上人の代、嘉永四年、類燒の厄に罹り、堂宇悉く灰燼に歸したが、元治元年、本堂・庫裡・山門等の竣功を遂げて、再び法燈を輝かせた。依つて後年本寺より漸譽上人に、中興の稱號を追贈して、其功績を賞した。元、境木の地藏堂を進退して居たことが、新編武藏風土記稿に載せてある。
本尊
本尊は阿彌陀如來坐像、二尺七寸、臺座三重、高二尺七寸。(「横浜市史稿」より)
保土ケ谷区役所資料歴史を歩いてみようによる見光寺の縁起
開山は江戸時代初期(1629 年)。保土ヶ谷の住人で熱心な浄土宗の信者、茂平夫妻が建てた。保土ヶ谷出身のコラムニスト青木雨彦氏の句碑がある。(保土ケ谷区役所資料歴史を歩いてみようより)
見光寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿」