道本山霊巌寺|関東十八檀林、江戸六地蔵、陸奥国白河藩松平定信の墓所
霊巌寺の概要
浄土宗寺院の道本山東海院霊巌寺は、寛永元年(1624)、霊巌雄誉上人が隅田川河口を埋め立てて霊巌島を築いた時の草創です。明暦の大火(1657)後に現在地へ移転しました。陸奥国白河藩松平定信の墓所があり、白河の地名が名づけられてます。
山号 | 道本山 |
---|---|
院号 | 東海院 |
寺号 | 霊巌寺 |
住所 | 江東区白河1-3-32 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 関東十八檀林の一つ、江戸六地蔵の一つ |
※御朱印画像はいけみずさんよりの寄贈
霊巌寺の縁起
霊巌寺は、浄土宗総本山知恩院第32世雄誉霊巌上人が開山となり、茅場町付近に創建したといいます。寺地が狭く、向井将監忠勝の下屋敷の芦沼を拝領、霊巌島を造成して寛永元年(1624)に道本山東海院霊巌寺を建立、浄土宗の関東十八檀林の一つとして多くの僧が修行していましたが、明暦3年(1657)の大火で焼失、万治元年に当地に替地を拝領し移転したといいます。
「江東区の民俗深川編」による霊巌寺の縁起
霊巌寺
開山上人は浄土宗総本山知恩院第三二世雄誉霊巌上人。江戸に教えを広めようと、今の茅場町あたりに草庵を建てた。上人の徳を慕う人が増え、草庵が狭くなったので、向井将監忠勝の下屋敷の芦沼を賜り、信者の、協力を得て、寛永元年(1624)に道本山東海院霊巌寺を建立した。寛永五年に浄土宗の檀林に列せられる。学寮が百二十余あり、多くの僧侶が修行していた。明暦三年(1657)の大火で焼失し、翌万治元年に現在地に替地を与えられ、第三世珂山上人は松平忠倶(信濃飯山藩主)の協力により移転復興させた。大震災・戦災に遭い、現在の本堂は昭和五六年に完成したものだという。松平忠倶の墓は境内に残る(「浄土宗道本山東海院霊巌寺」)。
霊巌上人は天文二三年(1554)、沼津で今川家の一族、沼津土佐守氏勝の三男として生まれた。父・二人の兄はこの年、三河攻めで討ち死にしていた。上人は永禄七年(1564)、一一歳のとき沼津浄蓮寺に出家する。その後、下総国生実の大巌寺で修行し、大巌寺三世となり、天正一八年に辞し、南都に向かい、永亀山肇叡院霊巌寺など十数力寺の開基となった。文禄元年(1592)、家康は霊巌の南都での話を聞き、関東に戻り、「大巌寺で再び法幢を立つべき」と伝えさせ、それを聞いた上人は再び大巌寺三世となり、大網村に大巌院を創建した。その後、江戸に出て、道本山霊巌寺を茅場町に草創した。上人はかねてから鎮守をお祀りしようと思っていた。深川の一村に鶴岡八幡宮があったが遠かった。およそ十町ほど手前に弁天社があり、渡場七処あった。そこは地所が広く、大社を造るのによいので、八幡宮をここに移し、霊巌寺の鎮守にしようと、氏子の長などに相談のうえ、富岡に移した。その縁で、祭礼の時には神輿を門内に入れ、代々の丈室拝礼があり、青銅一貫文神前に供える古例があり、そういう因縁から中央区霊巌島が富岡八幡宮の氏子になっている。霊巌上人は霊巌寺の落慶が終わるとすぐに本山知恩院に転任し、寛永六年(1629)に第三二世住職となる。寛永一〇年、知恩院が火事で焼失し、再建に努力し、寛永一三年、東洋一の洪鐘も完成し、寛永一五年、諸堂が完成する。伽藍造営の御礼として寛永一八年(1641)に関東に向かい、江戸で亡くなる。八八歳であったという(「雄誉霊巌上人伝」)。この伝には、富岡八幡宮の創成に、霊巌上人が関係していたという説が出ている。霊巌島が富岡八幡宮の氏子であるのは事実なので、このような説が出たのであろうか。別伝として記載した。
学寮は西方に一三寮、南方に九寮、東方に一一寮、最東方に八寮あったという。別院は長専院・雄松院・済生院、塔頭は正覚院・成等院・栄寿院・深照院・安養院・開善院・浄閑院・松林院、八庵として、広閑院・済乗院・霊光院・見松庵・潮江庵(潮江院)・吟松庵・清澄庵・臨海庵があったという(「新撰東京名所図会」)。(江東区の民俗深川編より)
霊巌寺所蔵の文化財
- 銅造地蔵菩薩坐像(東京都有形文化財)
- 松平定信墓(日本国指定史跡)
- 松旭斎天一墓(江東区登録有形文化財)
霊巌寺のもと別院・塔頭・末寺
霊巌寺のもと別院
霊巌寺のもと塔頭
- 正覚院(塔頭)
- 成等院(塔頭)
- 栄寿院(塔頭)
- 深照院(塔頭)
- 安養院(塔頭)
- 開善院(塔頭、成等院に合併)
- 浄閑院(塔頭)
- 松林院(塔頭)
- 廣閑院(八庵)
- 済乗院(八庵)
- 霊光庵(八庵)
- 見松庵(八庵)
- 潮江庵(潮江院)(八庵)
- 吟松庵(八庵)
- 清澄庵(八庵)
- 臨海庵(八庵)
霊巌寺のもと末寺
霊巌寺の周辺図