佛向山正福院。榮叟梵昌和尚開基
正福院の概要
曹洞宗寺院の正福院は、佛向山と号します。正福院は、榮叟梵昌和尚(永享元年寂)が開基、二世堯室春公の代に小田原北條家より山号及び村名の許可を得たといいます。小机雲松院第九世明山宗鑑和尚が中興し、正福寺から正福院へと改めたといいます。
山号 | 佛向山 |
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院号 | 正福院 |
寺号 | - |
本尊 | 如意輪觀世音菩薩像 |
住所 | 横浜市保土ケ谷区仏向町399 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
正福院の縁起
正福院は、榮叟梵昌和尚(永享元年寂)が開基、二世堯室春公の代に小田原北條家より山号及び村名の許可を得たといいます。小机雲松院第九世明山宗鑑和尚が中興し、正福寺から正福院へと改めたといいます。
新編武蔵風土記稿による正福院の縁起
(佛向村)正福院
村の北によりてあり、曹洞宗小机村雲松院末佛向山と號す、前にいへる如く北條家よりゆるされし山號なりと云、開山榮叟梵昌永享元年二月二十六日寂す、初は開山の諱を用ひて榮叟寺といひしが、先住明王宗鑑中興の時、今の院號にあらためしとぞ、宗鑑は寛文元年四月二十二日寂す、本尊如意輪観音坐像にして長一尺五寸、行基菩薩の作なりと云、脇士不動毘沙門の像を左右に安ず、共に立像にして長一尺客殿に安置せり、又薬師の立像あり是は惠心僧都の作なり、長一尺二寸、村内山王の本地佛なり、客殿□□に六間圓通閣の三字を遍す、紋の前に石階あり皆北に向ふ、當寺より安産の符を出せり。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿」による正福院の縁起
正福院
位置
正福院は、佛向山と號し、保土ヶ谷區佛向町三百九十九番地に在る。境内は四百五十坪。小机雲松院の末寺で、寺格は二等法地四十級である。
沿革
當院は、元、榮叟寺と稱し、榮叟梵昌和尙の開基に係ると云ふ。榮叟は永享元申年二月二十六日寂したとあるから、其創建の年代は推量すべきである。前住二世堯室春公和尙の時、小田原北條家より佛向山の號を許された。新編武藏風土記稿に、「村名ノ起リハ、昔村内正福寺ノ先住堯室、初メテ北條家ニ謁セシトキ、願アラバ申スベシトアリケルニ、出家ノ身ハ他ノ志願ナシ。唯常ニ佛ニ向フコソ桑門ノ本意トスル所ナレバ、寺ノ山號及ビ其村里ニモ佛向ノ二字ヲモテ名付賜ハルベシトノ願ニヨリ、領掌アリテ、カク名付ケラレシトゾ。」と口碑が載せてある。榮叟より十七世を歷て衰廢したが、萬治の頃、小机雲松院第九世明山宗鑑和尙が中興した。當寺古くは佛向にあつたを、其後字大久保の邊に移し、明山和尙中興の際、再び今の地に移した。是れより以前は、遠州榛原郡石雲院の孫末であつたが、此時小机雲松院の末派に屬し、寺號をも今の如く改めた。元祿二年二月、客殿兼庫裡造立、文政八年三月、本堂再建、明治四十三年、裏山崩壞のため、客殿兼庫裡破壞、大正元年、玄關と共に再建、同十二年五月、總門の改築も成つた。維新前迄は山王社を進退してゐたので、今も尙法樂を行ふ。
本尊
本尊は如意輪觀世音菩薩坐像、長一尺五寸許、行基作。脇立は不動・毘沙門の立像で、長各〻一尺、傳に行基の作である。俗に子育觀音と稱し、古來安產の符を出してゐる。
貞享二乙丑仲秋第二世獨岸代、元祿十四辛巳年第三世鶴峯代、嘉永元戊申年三月第十五世實雄代、前後三囘再興し、開帳を行つたと云ふ。 (「横浜市史稿」より)
正福院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿」