若宮御霊神社|杉田の領主間宮信元が邸内鎮守として天文年間創建、
若宮御霊神社の概要
若宮御霊神社は、横浜市磯子区洋光台にある神社です。若宮御霊神社は、杉田の領主間宮信元が邸内鎮守として天文年間(1530)頃に創建した御霊権現社と、当地笹下城若宮曲輪の地に創建した若宮八幡社とを起源とします。明治41年に両社は天照大神宮に合祀されたものの、平成3年1月篠木神社と称して再建、平成16年社号を若宮御霊神社に変更、平成18年宗教法人登記したといいます。両社を創祀した間宮氏は小田原北条氏の滅亡と共に滅んだものの、一族からは杉田玄白、間宮林蔵、間宮士信等を輩出したといいます。
社号 | 若宮御霊神社 |
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祭神 | - |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 横浜市磯子区洋光台1-13-49 |
祭日 | - |
備考 | - |
若宮御霊神社の由緒
若宮御霊神社は、杉田の領主間宮信元が邸内鎮守として天文年間(1530)頃に創建した御霊権現社と、当地笹下城若宮曲輪の地に創建した若宮八幡社とを起源とします。明治41年に両社は天照大神宮に合祀されたものの、平成3年1月篠木神社と称して再建、平成16年社号を若宮御霊神社に変更、平成18年宗教法人登記したといいます。両社を創祀した間宮氏は小田原北条氏の滅亡と共に滅んだものの、一族からは杉田玄白、間宮林蔵、間宮士信等を輩出したといいます。
新編武蔵風土記稿による若宮御霊神社の由緒
(松本村)
御靈権現社
小名下笹下にあり、森中原村修験泉蔵院持、古間宮氏宅地の鎮守なりしと、寛永二年間宮左衛門尉敦信より泉蔵院へ與へしものに、當社勧請及再興等のことを記せり、其文左の如し、
武州久良岐郡杉田庄、佐々気村御靈宮天文年中開基、願主同國橘樹郡川崎堀ノ内城主佐々木間宮豊前守源信、元當所領内江建立、文禄年中信元四代孫、間宮彦四郎源直元造代之云々、
右之外修理等、數代從當家沙汰之所也、今度拝殿造作依從先祖爲嘉例、棟札奉納之、于時寛永第二酉、猛夏、本願主豊前守信元七代之後胤、願主武劦久良岐郡杉田村地頭佐々木間宮左衛門尉源敦信、花押
爲天下泰平、君臣和合、武運長久、子孫繁栄、家内領分安全
御靈宮別當所泉蔵院
是に據は、もとは拝殿なども有しと見ゆれど、今は僅の祠のみ建り。
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若宮八幡社
小名笹下にあり、社は二間に三間なり、村民持。 (新編武蔵風土記稿より)
神奈川県神社誌による若宮御霊神社の由緒
神奈川県神社誌編纂時未設立のため掲載なし(神奈川県神社誌より)
境内石碑による若宮御霊神社の由緒
若宮八幡宮 御霊権現社 由来
当社は天文年間(一五三〇年)頃時の杉田の庄領主間宮信元により開基されたことは杉田間宮家当社棟札写新編武蔵風土記稿及び明治四一年当社棟札により明らかである。当社は後北条の時笹下城主及び間宮氏の守り神として祀られ若宮八幡宮はこの地笹下城若宮曲輪に御霊権現社は旧笹下町四一四六番地に位置し共に城の大手を守っていた。笹下城は杉田の湊を本據とした間宮水軍の根城であった。若宮八幡宮は鎌倉鶴ヶ岡八幡宮より遷宮されたがその本宮である石清水八幡宮の様式に倣って八幡宮と間宮氏の祖先を祀る近江沙々貴神社を一体としてお祀りした。
後北条時代は杉田の庄の総社として扱われていたと伝えられる。江戸期に入って共に小字笹下立野の(洋光台一丁目笹下三丁目の一部)の村民持のお宮となった。その事も新編武蔵風土記稿により明らかである。明治四一年訓令により現在の港南区港南の天照大神宮(神明宮)に合祀された。
近年洋光台一丁目笹下三丁目の一部等の有志の心からなる支援協力により平成元年十一月二六日に元のこの地に目出たく遷宮された。宗教法人の法的手続き上神社名は単一にする必要により篠木神社としたが本来の社名様式に変りはない。開基の間宮氏に因んで言へば間宮一族は明治維新まで笹下の地を中心に杉田の庄と深い関係にあった。特に後北条滅亡の際は領主間宮豊前守康俊はこの地の将兵を中心に箱根山中城先手の岱崎曲輪を守り勇戦して秀吉方先手の大将一柳伊豆守を討取ったが衆寡敵せず全滅した由北条記等にも伝えられている。
幕末にはその後裔杉田玄白、間宮林蔵、間宮士信等新時代の曙を告げた人々も出ている。(境内石碑より)
若宮御霊神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿