寶勝寺。横浜市磯子区氷取沢町にある真宗大谷派寺院

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飯盛山寶勝寺。金澤觀音の20番

寶勝寺の概要

真宗大谷派寺院の寶勝寺は、飯盛山大音院と号します。寶勝寺は、天台宗寺院のあった当地に応永年間(1394-1427)に鎌倉浄妙寺の住僧天瑞守政禅師(応永30年寂)が飯盛山寶積寺と号して創建、享禄・天文年間に浄土真宗に改宗、住僧は湛瑞空眞と改め寺号を飯盛山寶勝寺としたといいます。金澤觀音の20番です。

寶勝寺
寶勝寺の概要
山号 飯盛山
院号 大音院
寺号 寶勝寺
住所 横浜市磯子区氷取沢町126
宗派 真宗大谷派
葬儀・墓地 -
備考 -



寶勝寺の縁起

寶勝寺は、天台宗寺院のあった当地に応永年間(1394-1427)に鎌倉浄妙寺の住僧天瑞守政禅師(応永30年寂)が飯盛山寶積寺と号して創建、享禄・天文年間に浄土真宗に改宗、住僧は湛瑞空眞と改め寺号を飯盛山寶勝寺としたといいます。

新編武蔵風土記稿による飯盛山寶勝寺の縁起

(氷取澤村)寶勝寺
除地、三段、村の中程なり、浄土眞宗、東本願寺末、飯盛山大音院と號す、寺域山の半腹にありて喬木枝葉茂り、極て幽遠の梵刹なり、古此所に天台の寺院ありしが、久く廢跡となりしを、應永年中に相州鎌倉五山の一、稲荷山浄妙禅寺の住僧守政、隠棲の爲に直心庵を造り、又後に當寺を開基して此所に移り、飯盛山寶積寺と號して、済家の法燈を掲ぐ、守政は同三十年十一月晦日化す、年六十、後享禄・天文の頃の住僧某、本願寺證如に歸依し、禅家を改て眞宗となり、釋空眞と改名し、寺號をも寶勝に改む、是を中興開祖とす、十九年庚戌三月十日眞寂す、二世を了應と云、永禄五年寂す、三世順應、天正四年三月廿一日寂す、四世寂雅、慶長二年十一月一日寂す、其頃北條氏家人間宮若狭守綱信寺僧に歸依し、檀越として中興すと云、寺僧には空眞改宗の頃の事ならんといへど、綱信は應永四年に生れたれば、年代少しく合はず、二世以下に中興せしか、或は綱信當村を賜はりて後に改宗し、堂宇以下を造立せしを地頭なるをもて、中興開基とせしも知べからず、綱信事跡は、下に詳なり、これより先巨細の事は傳へざれど、浄妙寺天瑞守政禅師位牌の裏書に、於武之寶積、爲示寂矣云々、因幡雖有寶積之靈、鐘逢天正庚寅騒亂、爲賊徒奪房州、就中當處金子某甲、永禄年中於彼州観之銘の年號、正に應永と謂と、古老傳て云爾耳、自註に云、小田原滅亡、亦於當山釋寂雅寺務之時也と、是亦當寺の考證に備るに足れり、四世寂雅化して後、久しく中絶し、又其後に至りて回禄にかかりし時、記録をも失ひたればにや、傳を失ひし事も多かるべしと云、堂中に中興開基故地頭間宮若狭守綱信入道の位牌あり、表に綱信院殿朝與一宗居士、慶長十一酉年霜月と岡、俗名間宮若狭守とあり、背面に夫當山者、往古有精舎之舊跡、礎而巳無三寶、良久破壊、不知謂人皆昔時何宗、或者幽有傳説、台宗人越、相州稲荷山前浄妙寺、守政師開基、直心庵将移當山、建立一宇、號飯盛山寶積寺、爲禅宗済家紹隆之道場、于時應永三十稔、龍集癸卯十一月朔日、午刻頽齢六十歳、於當院爲示寂と制せり、綱信院は則【間宮家傳】に間宮若狭守綱信と云、同姓豊前守盛頼二男なり、北條陸奥守氏照に仕へ、後氏政の時命を受て信長の許に使す、路三州岡崎を經始て東照宮に謁し奉り、後御入國の時西尾隠岐守に命して、辟命あるにより、出て旗下に屬し、慶長十四年七十四歳にて死す、法名休庵、又同流の家譜に、天正十八年北條氏沒落後、東照宮屡綱信を召す、綱信おもへらく一度北條家に仕へて高禄を得、今其舊禄に復さば出て旗下に屬するも可なり、しからざれば出仕すべからずと、遂に其召に應せず、北條氏沒落一朝の間、其臣の本領を復するは諸臣の面目如何と思しけるや、其子忠左衛門重信を召す、重信は未だ侘家へも仕へざりしかば、則禄の多少を論ぜず、召に應じて、幕府に歸す、爰に於て俸禄若干を賜はり、父綱信には隠居の料として當村一圓を賜ふと云、事跡異同あれど彼此傳る處の儘を記せり。
鍾樓。堂前左方にあり、享保九年の銘あり、其意の大體は前に記す。
雷松。境内、山の頂にあり、この松梢へ落雷しことありしより名とせりと云、尤喬木にて東方の海上を往来せる船人の目あてとなれりと、枯れしのちは元雷松と呼ぶ、樹下に飯盛り童子の社を安し鎮守とせし由、寛永の頃廢せり、當寺を飯盛山と號せしは、この故なるべし。
間宮綱信陣屋蹟。境内の西方にあり、綱信隠居の宅地ともいへり、廣さ五六丁、今は畑となれり、又間宮縫助が家の記録には、村中に間宮氏の舊臣岡本次右衛門といへるありし、村民藤左衛門は其子孫にて、かれが宅地の邊、間宮氏陣屋跡ありなといへど定かならず。
乳母がふところ。境内西北の山を七八丁上る所を云、綱信の末子忠左衛門重信襁褓の中にありしを、乳母が此所にて養育せしと云、今縫殿助信清が家にて、年毎に乳母が靈を祀るは、この故なる由、信清家蔵文書三通あり、(文書省略)(新編武蔵風土記稿より)

「横浜市史稿 佛寺編」による寶勝寺の縁起

寶勝寺
位置及寺格
寶勝寺は飯盛山大音院と號し、磯子區氷取澤町百二十六番地にある。境内は二百四十二坪。官有地。東本願寺直末で、寺格は平僧地、金澤觀音の第二十番札所である。
沿革
當寺の境地は、天台宗古刹の遺蹟であると云ふ。應永年中に鎌倉浄妙寺の天瑞守政禪師が之を開いて、禪宗の道場を起立し、飯盛山寶積寺と稱した。其後百有歲を經、享祿・天文の頃、京都本願寺の蓮如上人が、此地に巡錫した際、時の住僧が其法話を聽いて、深く上人に歸依し、遂に寺を眞宗に轉じ、寺號をも寶勝と改めた。この僧は則ち湛瑞空眞である。故に空眞を以て當寺改宗中興開祖とする。空眞は源家の後胤、義國の末孫、成氏の末男であると云ふ。尙當寺にある開祖天瑞守政禪師位牌の裏書に曰ふ。「當山者、往昔有二精舍舊跡礎一而己無二三寶一。久破壊不レ知レ謂二人皆昔時何宗一。或幽曰レ有下傳二說台宗一人上。越相州稻荷山前淨妙寺守政師、開基直心庵一。將下移二當山一建二立一宇一。號二飯盛山寶積寺一。爲中禪寺濟家紹隆之道場上。于レ應永三十稔癸卯十一月晦日午刻、頽齡六十歲於二當院一爲二示寂一矣。」とある。新編武藏風土記稿にも、これと略〻同樣に記してある。後條に揭げてあるのを參照されたい。天正十八庚寅年、小田原籠城の際、賊徒の爲め、應永年中、開創の時から傳はつた梵鐘を奪はれ、後、安房國安房郡岩井村大字二部正善寺の什寶となつたと云ふ。守政禪師位牌の裏書に曰ふ。「有下於二武寶積一爲中示寂上矣。囚レ舊雖レ有二寶積之靈鐘一、逢二天正庚寅小田原氏直滅亡亦於二當山一者釋寂雅寺務時也。騷亂一、爲二賊徒一奪二房州一。就レ中當處金子某甲、永祿年中、於二彼州一視レ之。銘年號正應永焉謂、故老之傳云レ爾耳。厥後歷二百餘霜一奉二本願寺蓮如上人歸依一。後土御門之御宇、改レ禪爲二眞宗一。改二寺於寶勝一。爾來永成二大谷之寶等悉く灰燼に歸した。第十世眞了の代、客殿を再建し、第十三世了繼の代に、梵鐘を再鑄し、大正九年、現住第十九世法潤、更に再建を遂げた。當寺は地頭間宮若狹守綱信以來、累代の菩提寺と爲つたので其外護を得たことが少くなかつたと云ふ。
本尊
本尊は阿彌陀如來木坐像、長二尺五寸である。(「横浜市史稿 佛寺編」より)


寶勝寺の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「横浜市史稿 佛寺編」

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿