金蔵院。横浜市磯子区磯子にある高野山真言宗寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

海向山金蔵院。横浜磯子七福神の弁財天、横浜觀音三十三観世音霊場

金蔵院の概要

高野山真言宗寺院の金蔵院は、海向山岩松寺と号します。金蔵院は、栂尾の明惠上人から与えられた薬師像を安置するために北条泰時が靈雲山龍錫寺と号して岡村に創建、嘉暦3年(1328)理空上人が当地に再興したといいます。境内の観音堂は、山田谷にあつたもので明治35年に移設したものだといいます。東国八十八ヵ所霊場48番、横浜觀音三十三観世音霊場22番、横浜磯子七福神の弁財天です。

金蔵院
金蔵院の概要
山号 海向山
院号 金蔵院
寺号 岩松寺
住所 横浜市磯子区磯子4-3-6
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



金蔵院の縁起

金蔵院は、栂尾の明惠上人から与えられた薬師像を安置するために北条泰時が靈雲山龍錫寺と号して岡村に創建、嘉暦3年(1328)理空上人が当地に再興したといいます。境内の観音堂は、山田谷にあつたもので明治35年に移設したものだといいます。

新編武蔵風土記稿による金蔵院の縁起

(根岸村)金蔵院
除地、境内三畝、山一段七畝廿一歩、南の方にあり、同宗同末(古義眞言宗、石川寶生寺末)、海向山岩松寺と號す、本堂六間半に五間半、本尊薬師は安阿彌の作にして秘佛なり、當寺は嘉暦三年理空といへる僧造立し、後僧賴嚴天正四年中興せりと云。(新編武蔵風土記稿より)

「横浜市史稿 佛寺編」による金蔵院の縁起

金藏院
位置及寺格
金藏院は、海向山岩松寺と號し、磯子區磯子町宮下八百八十番地にある。境内は四百三十坪。官有地二百四十坪、民有地百九十四坪。大本山高野山金剛峯寺直末の十一等格院で、市内觀音三十三所の第二十二番の靈場である。
沿革
傅説に據れば、鎌倉の執權北條泰時が、栂尾の明惠上人から附與された藥師の尊像を安置する爲めに草創した所で、初めは靈雲山龍錫寺と稱し、(今の岡村町堂面は其の舊跡と云ふ。)に在ったが、嘉歴元年、祝融の災に罹つて、廢跡に歸したのを、同三年に、理空上人が今の境内に移して再典を遂げ、今の寺號・院號に改めたと云ふ。併し延享二年の書上、及び新編武藏風土記には、唯、嘉歴三年に、理空が起立したとのみ記してある。天正四年に、賴嚴が中興した。寛永十年二月十五日議定の關東古義眞言宗本末帳には、石川寶生寺末、御除とある。明治維新の際までは、山王社・神明社・御嶽社・遮愚儞社・第六天社の別當を兼帶し、叉、不動堂及び二字の阿彌陀堂を進退して居た。明治七年、石川增德院に轉屬し、明治三十五年五月七日、山田谷にあつた觀音堂を移して、境内佛堂とし、大正十五年六月二十九日大本山金剛峯寺の直末となった。
本尊
本尊は藥師如來、安阿彌作と云はれてゐる。
堂宇
現今の堂宇は、本堂桁行六間半、梁間四間半、四注造、草葺。・玄關桁行一間半、亞沿葺。・庫裡桁行三間半、梁間五間、亞沿葺。等
である。
境内佛堂
境内佛堂、觀音堂。明治三十五年九月十九日、山田谷から移して境内佛堂としたものである。本尊は如意輪觀音、北條泰時の内室の護持佛であつたと云ふ。外に脇本尊阿彌陀如來、及び閻魔大王が安置してある。堂宇は桁行三間、梁間四間、方形造、亞鉛葺である。(「横浜市史稿 佛寺編」より)


金蔵院の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「横浜市史稿 佛寺編」

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿