禪馬山真照寺。横浜磯子七福神の毘沙門天、東国八十八ヵ所霊場、横浜觀音三十三観世音霊場
真照寺の概要
高野山真言宗寺院の真照寺は、禪馬山不動院と号します。真照寺の創建年代等は不詳ながら、源頼朝の御家人平子平右馬丞有長が壽永元年(1182)に再興したといいます。慶安2年(1649)以前より、寺領四石九斗の御朱印状を拝領していたといいます。東国八十八ヵ所霊場49番、横浜觀音三十三観世音霊場23番、横浜磯子七福神の毘沙門天です。
山号 | 禪馬山 |
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院号 | 不動院 |
寺号 | 真照寺 |
住所 | 横浜市磯子区磯子8-14-12 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
真照寺の縁起
真照寺の創建年代等は不詳ながら、源頼朝の御家人平子平右馬丞有長が壽永元年(1182)に再興したといいます。慶安2年(1649)以前より、寺領四石九斗の御朱印状を拝領していたといいます。
新編武蔵風土記稿による真照寺の縁起
(磯子村)寳積寺
眞照寺
東北の方にあり、古義眞言宗、石川寶生寺末、禪馬山三鄕院と號す、古禅馬郷を三村に分ちしを以て、院をかく號すと云、寛永三年五月、當所の御代官樋口又兵衛より、當寺開基のことを尋し時、書上し草稿を蔵す、其略に當寺は、元暦元年平子平右馬丞再興する所にて、其後文明五年に圓鎮といへる僧造營を加へしと云、されど此舊記の祖と考證とすべきものなく、且平子平右馬丞が事跡等其傳へを失へり、按するに當國七黨の内、横山黨に廣長が子、平子野平右馬允有長と云ものあり、又【東鑑】建久四年五月二十八日の條に、爲祐成等多以被庇、所謂平子野平右馬允愛甲三郎云々、【曽我物語】十番切の條に、武蔵國住人たいらのゝへいまのすけ(一本に平楽野とあり)名のり出しに、祐成がために疵を被りし由見えたり、是すなはち當寺を再興せし人なるべし、今當郡に平子庄あり、圓鎮は本寺開山より三世の住僧にて、文明五年十一月三日寂すと云、寶生寺に蔵する寛正四年圓鎮が寄附状に、平子郷根岸村三分一、七貫三百五十文の内七貫文は寶生寺に寄附し、三百五十文は毎年眞照寺に納へし、次役在家の佃公事の分、同く年々に眞照寺へ納べき由を載せ、末に眞照寺法印圓鎮と記したれば、後年當寺に隠栖せしならん、又此僧當寺境内阿彌陀堂領を寄附せしことあり、其寄進状は阿彌陀堂の條に出せり、寺領四石九斗の御朱印は慶安二年に賜りたれど、前に云寛永三年の書上に、すでに四石九斗餘の御朱印ある由載たれば、慶安には先規によりて賜りしこと知べし、客殿八間に五間半、本尊不動を安ず。
三島明神社。客殿の西にあり。
阿彌陀堂。客殿の左に續けり、三間半に三間、三尊彌陀を安し、外に天神多聞天の像あり、又平子平右馬允が像とて、長四尺餘の木像あれど、毘沙門天の如にて、平右馬允が像とも思れず、文明五年中興開山圓鎮、禅馬根岸兩村の内にて、此阿彌陀堂領を寄附せし由、其時の寄進状を蔵す、去と料紙墨色等、當時の者とは見えず、本書を失て寫を傳へし成べし、其文如左。(文面省略)
鐘楼。門を入て右にあり、寶暦五年四月再鑄の鐘をかく。
門。四足の門なり、一間半に一間二尺。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿 佛寺編」による真照寺の縁起
眞照寺
位置及寺格
眞照寺は、禪馬山三鄕院と號し、磯子區磯子町四百十七番地にある。境内は千二百五十坪。官有地四百五十坪、民有地八百坪。高野山金剛峯寺の直末で、寺格は八等、市内觀音三十三所の内、第二十三番の靈場である。
沿革
開基・開山不明。元歴元年、平子平右馬丞が再興したと傅へてゐる。文明五年、僧圓鎭が造營を加へ、鄕内禪馬・根岸兩村三分一の所領を寄進した。慶安二年、德川氏は先規によつて四石九斗餘の朱印地を寄進した。延享二年十二月五日附、根岸領書上に、禪馬山密嚴院とあるが、風土記稿には、「禪馬山三鄕院と號す。古、禪馬鄕を三村に分ちしを以て、院をかく號すと云。」とある。密嚴院とは舊號であるか、或は別號であるか明かでない。寶暦四年に、梵鐘を鑄造した。明治維新の際までは、海岸に在つた稻荷大明神、及び岡村に在つた御嶽權現、竝に稻荷大明神の別當を兼帶し、また境外の阿彌陀堂を進退してゐた。當寺は古來、石川の寶生寺に屬してゐたが、明治七年に、元町の增德院に轉屬した。大正十一年九月十七日、毘沙門堂改築。大正十二年九月一日の大震災に、堂宇大破し、四足門は倒潰に及んだ。直後に堂宇は復舊の工を遂げたが、表門は未だ再興の運びに至らぬ。大正十五年六月二十九日に、高野山金剛峯寺の直末となつた。
本尊
本尊は阿彌陀三尊。昔は不動明王を立て、明治の初年には、五智如來を立てたが、其後に阿彌陀堂の本尊と移して代へたのである。
堂宇
現今の堂宇は、本堂(桁行七間、梁間五間、四注造、草葺。)・庫裡(瓦葺。)・鐘樓(草葺。)等である。
境内佛堂
境内佛堂、毘沙門堂(桁行三間、梁間四間、方形造、亞沿葺。大正十一年九月十七日改造。)は、元は阿彌陀堂と稱した。
今の本尊毘沙門天は、平子野平右馬允の像であると傳へてゐる。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
横浜市交際観光協会・横浜市教育委員会文化財課掲示による真照寺の縁起
高野山真言宗禪馬山三鄕院真照寺は、壽永元年(1182)、源頼朝の御家人で「吾妻鏡」にその名が見える平子右馬丞有長の御家人で「吾妻鏡」にその名が見える平子平右馬丞有長の再興した寺であるといわれています。
有長は、建久4年(1193)、源頼朝が富士の巻狩りの折、曽我十郎と切りむすんだ人です。
平子氏は、中世末期小田原北条氏が関東に進出するまで、現在の横浜市域のうち、中区・南区・磯子区を領有していました。平子氏の館跡が真照寺の境内を含む地域であろうといわれています。(横浜市交際観光協会・横浜市教育委員会文化財課掲示より)
真照寺の縁起
- 木造毘沙門天立像(横浜市指定有形文化財)
木造毘沙門天立像
中世の横浜を代表する武士団である平子氏本家の菩提寺真照寺に伝来した古像で、江戸時代の記録には、平安時代末期に真照寺を再興した平子有長の肖像として記されています。
一木造りの技法に平安時代前期風を残すものの、胸が薄く、ゆるやかな体型から、平安時代後期、十二世紀前半頃の製作と考えられます。作風はやや地方的であり、後世に造り変えられた部分も少なくありませんが、等身に近い大きさをもち、平安時代末期の真照寺再興以前にさかのぼる古像として、貴重な遺品です。(横浜市教育委員会掲示より)
真照寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿 佛寺編」
参考資料
- 新編武蔵風土記稿