東光寺。横浜市神奈川区東神奈川にある真言宗智山派寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

平尾山東光寺。平尾内膳が太田道灌より与えられた守護仏で創建、寅歳開扉武南十二薬師如来霊場、東国八十八ヵ所霊場

東光寺の概要

真言宗智山派寺院の東光寺は、平尾山と号します。東光寺は、太田道灌(1432-1486)が小机城を攻略後、平尾内膳が太田道灌より与えられた守護仏を元に当寺を創建したと伝えられます。寅歳開扉武南十二薬師如来霊場11番、東国八十八ヵ所霊場19番です。

東光寺
東光寺の概要
山号 平尾山
院号 -
寺号 東光寺
住所 横浜市神奈川区東神奈川2-37-6
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



東光寺の縁起

東光寺は、太田道灌(1432-1486)が小机城を攻略後、平尾内膳が太田道灌より与えられた守護仏を元に当寺を創建したと伝えられます。

新編武蔵風土記稿による東光寺の縁起

東光寺
西側にあり。新義真言宗宿内金蔵院の門徒なり。平尾山と号す。開闢の年代及び開山の名を傳へず。本尊薬師台座共に1尺8寸にて立像なり。近き頃の地震に堂宇ことごとく破壊し、今は住僧もなくて廃せざるばかりなり。
不動堂、2間に2間半なり。
薬師堂、2間に2間半なり。(新編武蔵風土記稿より)

「神奈川区史」による東光寺の縁起

口伝には平尾城主平尾内膳(小田原北条の家臣)の建立といい、本尊は、内膳の守本尊の薬師如来であるという。
旭ケ丘五六番地に「平尾内膳物見之松」の碑がある附近に、城址があったのではあるまいか。
当寺は初めニッ谷にあったが、何時の頃か現在地に移転した。
文化九年一一月四日の地震に堂宇は全て倒壊した。文政・天保の頃は廃寺同様の状態であったという。
明治元年一月七日の神奈川宿の大火に類焼し、明治三四年に至って再興した。
大正一二年九月一日の大震災には庫裡が倒壊したが、直に復興したが、昭和二〇年五月二九日の大空襲に堂宇は全焼した。(「神奈川区史」より)

「神奈川区宿歴史の道」掲示による東光寺の縁起

東光寺は、平尾山と号し、新義真言宗に属す。この寺の本尊はもと太田道灌の守護仏であったが、道灌の小机城攻略後、平尾内膳がこの仏を賜り、この寺を草創したといわれる。
また、道灌は内膳に本尊を与えるに際し、「海山をへだつ東のお国より、放つ光はここもかわらじ」との歌を読んだといわれ、この歌が東光寺の名称の由来だとも伝えられる。
「金川砂子」には海道に面して山門を開く様子が描かれている。(「神奈川区宿歴史の道」掲示より)

「横浜市史稿」による東光寺の縁起

東光寺
位置
東光寺は、平尾山本願院と號し、神奈川區神奈川町神明町七百四十二番地にある。境内は百八十五坪。金蔵院の末、寺格二等である。
沿革
口碑に據れば、平尾城主平尾内膳(内膳は小田原北条氏の家臣。)の建立で、本尊の藥師如來は、その守本尊(一に太田道灌の守本尊とも云ふ。)であつたと云ふ。初め二ッ谷の平尾にあつたが、後、今の境内に移轉した。文化九年十一月四日未刻午後二時。の地震に、堂舎悉く破壊した。文政・天保の頃は住僧もなく、殆ど廢寺同様の有様であつたと云ふ。明治元年一月七日、宿中の大火に類燒し、明治三十四年に再興した。同四十年の頃の大風に山門が倒潰したが、大正十二年九月一日の大震災には庫裡また倒潰に及んだが、次いで直に復興を遂げた。
本尊
本尊は藥師如來の坐像、一尺八寸。
堂宇
現今の堂宇は、本堂 桁行五間、梁間四間半、四注造、亞沿葺。及び庫裡である。
境外佛堂
境外佛堂、藥師堂。字二本榎にある。
備考。元は不動堂もあつたが、今は廢絕した。(「横浜市史稿」より)


東光寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「神奈川区史」
  • 「横浜市史稿」