海浦山吉祥寺。東国八十八ヵ所霊場
吉祥寺の概要
真言宗智山派寺院の吉祥寺は、海浦山新源院と号します。吉祥寺は、僧隆運が元和二年(1616)に開基、神奈川宿小伝馬町にあり、金蔵院の隠居寺だったといいます。明治元年に罹災、本寺金蔵院の住職隆壽の尽力により明治38年当地へ移転、大正8年本堂を再建したといいます。東国八十八ヵ所霊場22番です。
山号 | 海浦山 |
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院号 | 新源院 |
寺号 | 吉祥寺 |
住所 | 横浜市神奈川区白楽98 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
吉祥寺の縁起
吉祥寺は、僧隆運が元和二年(1616)に開基、神奈川宿小伝馬町にあり、金蔵院の隠居寺だったといいます。明治元年に罹災、本寺金藏院の住職隆壽の尽力により明治38年当地へ移転、大正8年本堂を再建したといいます。
新編武蔵風土記稿による吉祥寺の縁起
(小傳馬町)吉祥寺
新義真言宗にて当所十番町の金蔵院の門徒なり。海浦山新源院と号す。開山の名および年代を傳へず。もと金蔵院の住僧隠遁の所なり。本堂五間半に四間。本尊大日を安ず。本堂ともに南向なり。
庚申堂。門を入て左にあり。
稲荷社。門を入て右にあり。ともにわづかなる祠なり。(新編武蔵風土記稿より)
「神奈川区史」による吉祥寺の縁起
海浦山新源院吉祥寺(真言宗智山派) 白楽九八番地
沿革 はじめ神奈川小伝馬町にあったが、明治元年一月七日の桑名屋の火事で、神奈川宿のほとんど焼き尽くした時当寺もその厄にあったが、明治三六年本寺金蔵院の隆寿が梅原富久から境内敷地の寄附を得て、現在地に移した。
『新編武蔵風土記稿』によると「モト金蔵院ノ住僧隠遁ノ所ナリ」とあるが沿革を知ることはできない。(「神奈川区史」より)
「横浜市史稿」による吉祥寺の縁起
祥寺
位置
吉祥寺は海浦山新源院と號し、神奈川區西白樂町二千百二十七番地にある。境内は四百三坪。民有地。金蔵院の末、寺格八等である。
沿革
明細帳には、元和二年十一月八日、僧隆運の開基とあるが、新編武藏風土記稿には「開山ノ名、及ビ年代ヲ傳ヘズ。モト、金蔵院ノ住職隱遁ノ所ナリ」とある。元は小傳馬町にあつて、文政の頃は、五間半に四間、南向の本堂を備へ、本尊に大日如來を安置してあつたと云ふが、明治元年一月七日に、宿内の大火で類燒した。明治三十八年十二月、本寺金蔵院の住職隆壽が、梅原富久から境内敷地の寄附を得て、現在の地に移し、眞々田利吉から建物の施入を得て再興した。爾來、寺門の發展を遂げ、大正八年五月には、更に眞々田利吉の喜捨を得て、本堂の再建を見た。
本尊
本尊は阿彌陀如來の坐像で、左右に弘法大師及び不動を置いてある。
堂宇其他
本堂 桁行六間三分五厘、梁間四間六分六厘。は四注造、亞鉛葺。庫裡 桁行五間、梁間三間。は大正八年五月、元の本堂を改造したものである。其他、境内に次の建造物がある。稻荷社附屬庚申塔、六地藏・天狗銅造二體、寶劒銅造一振、及び水屋石燈龍一基、高野山浪切不動之碑、明治四十年九月造立。無緣塔、丸萬地藏尊銅像一體、弘法大師銅造八十八體等である。(「横浜市史稿」より)
吉祥寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「神奈川区史」
- 「横浜市史稿」