照光山青蓮寺。羽沢村里正喜兵衛の先祖平本院が開基
青蓮寺の概要
高野山真言宗寺院の青蓮寺は、照光山平本院と号します。青蓮寺は、三會寺9世法印隆全が開山となり永正元年(1504)に創建、羽沢村里正喜兵衛の先祖平本院が開基したと言います。
山号 | 照光山 |
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院号 | 平本院 |
寺号 | 青蓮寺 |
住所 | 横浜市神奈川区羽沢町762 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
青蓮寺の縁起
青蓮寺は、三會寺9世法印隆全が開山となり永正元年(1504)に創建、羽沢村里正喜兵衛の先祖平本院が開基したと言います。
新編武蔵風土記稿による青蓮寺の縁起
(羽澤村)青蓮寺
村の中央にあり、古義真言宗鳥山村三會寺末照光山平本院と號す、開基は村の里正喜兵衛が先祖なり、法謚を平本院と云卒年を傳へず、彼が氏を平本と云、故にそれを法謚とし亦寺の院號にも用ひしとなり、開山の僧及び年歴を傳へず、本堂六間に四間半東向、本尊は昔は大日なり、それは木の坐像にて長五寸許なりしが、いつの頃にか盗のために失ひしにより、其後如意輪観音木の坐像にて長八寸なるを本尊とせり、しかれども元の像は奇異のことどもありとて、何人か持来て當寺へ返せりと云、此大日は作物とのみいひ傳へて何れの作と云ことを知らず。(新編武蔵風土記稿より)
「神奈川区史」による青蓮寺の縁起
照光山平本院青蓮寺(高野山真言宗) 羽沢町七六二番地
沿革 開山・開基不詳。当寺明細帳には、開山を祐秀上人慶長四年二月一〇日寂とあったといい、過去帳には「開山法印隆全、永正元年創立、同一二年入寂、鳥山三会寺九代目也」といい、『新編武蔵風土記稿』には「開基ハ村ノ里正喜兵衛ガ先祖ナリ。法号ヲ平本院ト云。卒年ヲ伝へズ。彼ガ氏ヲ平本ト云。故ニソレヲ法号トシ、亦寺ノ院号ニモ用ヒシトナリ。開山ノ僧及年歴ヲ伝ヘズ」とある。昭和二年入山した伊藤照道が住持して以来、漸く一寺の体裁を整へるに至った。(「神奈川区史」より)
「横浜市史稿」による青蓮寺の縁起
靑蓮寺
位置
靑蓮寺は、照光山平本院と號して、神奈川區羽澤町七百六十二番地に在る。境内は三段五畝四歩 民有地。區内、鳥山町三會寺の末、寺格は二十等である。
沿革
當寺明細長には、開山を祐秀上人 慶長四年二月十日の示寂。と云ふとあるが、過去帳には「開山法印隆全、永正元年創立。同十二年入寂。鳥山三會寺九代目也。」とあり、また、新編武藏風土記稿には、「開基ハ村ノ里正喜兵衞ガ先祖ナリ。法號ヲ平本院ト云。卒年ヲ傳ヘズ。彼ガ氏ヲ平本ト云。故ニソレヲ法號トシ、亦寺ノ院號ニモ用ヒシトナリ。開山ノ僧及年歷ヲ傳ヘズ」ともある。いつの頃か囘祿の厄に罹つて、其後、再建したと傳へるけれど、其年代等も詳かでない。當寺は無住の時が多く、殆ど本寺の三會寺で兼務して來た。現住照道が住持して以來、漸く一寺の體裁を整ふるに至つたのである。
本尊
本尊は如意輪觀世音菩薩坐像、長八寸、作不詳である。
堂宇
今の堂宇は、本堂 桁行六間半、梁間五間、四注造、草葺。及び庫裡 桁行五間、梁間三間、草葺。である。
境内堂
辨天堂。桁行四尺、梁間四尺、亞鉛葺。由緒不詳。棟礼に「奉ニ再造一辨財天女一社、諸願成就、如意滿足攸。元治元甲子歳十一月吉祥日。別當靑蓮寺氏子中。」とある。(「横浜市史稿」より)
青蓮寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「神奈川区史」
- 「横浜市史稿」