三會寺。横浜市港北区鳥山町にある高野山真言宗寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

瑞雲山三會寺。源頼朝大檀那、東国八十八ヵ所霊場、旧小机領三十三所子歳観音霊場

三會寺の概要

高野山真言宗寺院の三會寺は、瑞雲山本覚院と号します。三會寺の創建年代は不詳ですが、源頼朝が大檀那となり佐々木高綱が奉行して建立、その後等海(応安6年1373年寂)が開山、印融法印が中興したといいます。慶長4年(1599)には、(北條家より引き継いで)寺領10石の御朱印を拝領したといいます。中興の僧印融法印は都筑郡久保の生まれで、弘法大師の再来と伝えられる名僧で高僧傳にも記載されているといいます。東国八十八ヵ所霊場25番、旧小机領三十三所子歳観音霊場2番です。

三會寺
三會寺の概要
山号 瑞雲山
院号 本覚院
寺号 三會寺
住所 横浜市港北区鳥山町730
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 城郷幼稚園併設



三會寺の縁起

三會寺の創建年代は不詳ですが、源頼朝が大檀那となり佐々木高綱が奉行して建立、その後等海(応安6年1373年寂)が開山、印融法印が中興したといいます。慶長4年(1599)には、(北條家より引き継いで)寺領10石の御朱印を拝領したといいます。中興の僧印融法印は都筑郡久保の生まれで、弘法大師の再来と伝えられる名僧で高僧傳にも記載されているといいます。

新編武蔵風土記稿による三會寺の縁起

(鳥山村)三會寺
字島にあり、昔は字馬場といへる所にありしと云、今もその邊に元屋敷と呼所あり、是その舊跡なりと云、寺領十石の御朱印を賜ふ、これ慶長四年二月十日のことなりと云、其時の文に武州多東郡小机庄鳥山村三會寺領十石は、先規に任せ寄附せられしよしをのす、是によれば北條家分國の時より、寺領ありしこともしるべし、古義真言宗にて紀伊國高野山法性院の末寺なり、瑞雲山本覚院と號す、右大将頼朝建立の密場にして、そのかみ宿徳の僧かはる替る住せしと云、今開山する所は等海にて、それより前の住僧の名は傳へず、等海は應安六年九月十五日或はいふ三日に寂せり、その後印融と云僧住職して中興す、此僧は道徳殊に聞えありて世にも宗祖弘法大師の再来なりといひ傳へり、本朝高僧傳云釋印融武州久保縣人生気含英徳具志節群籍経目自然憶持郷邑無足為師者弱冠杖策遍学南北駐高野山淬練業成主無量光院品藻宗教筆削著志嘗憂関左密法之衰晩年東行居武州鳥山三會寺性好読書或赴外請必駕小牛鞍著文卓行誦且吟東関緇白崇徳帰風永正十六年八月中旬夜半取滅壽八十五関東八州有古義檀林六十餘院寫融小肖歳時響祭平生撰述凡数十百巻行于世云云、又當寺の末都筑郡観音寺の傳に、印融は同郡久保村の産にて同村舊城寺の住職となり、其後所々へ移轉して晩年再び彼寺に来りて迂化すとみえたり、是によれば高僧傳に久保縣と書しは、都筑郡久保村なるべし、かかる宿徳の住せしかば、當寺の法燈もいよいよかがやきしなるべし、本堂十間に九間南向なり、本尊は不動の木像にて長二尺三寸許立像なり、行基菩薩の作なりといひ傳ふ。
寺寶
愛染像一躰。一寸許の坐像なり、弘法大師の作。
経文一巻。同人の筆なりと云。
鐘楼。門を入て右なり。延宝六年の鐘銘あり。
弥勒堂。門を入て左にあり、四間四方、此堂は元右大将頼朝大檀那にて、佐々木高綱奉行して建立ありと云、御入國の後東照宮の鈎命により、慶長二年より再造の事始あり、同き五年に落成せり、棟札左に載す。(棟札省略)
裏書の略に云、于此武蔵國多東郡小机保内鳥山郷瑞雲山三會寺本覚院者佐々木四郎奉之大檀那源朝臣頼朝御建立代々名徳居住秘密場也於當院在弥勒堂云云、この文によりても来由詳なり。
二生権現社。門を入て左にあり、九尺に六尺の社なり、いつの頃か両頭の蛇を崇め祀れるなりと云。(新編武蔵風土記稿より)


三會寺の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿