久應山寳秀寺。寶秀庵として草創、天正年間に開山
寳秀寺の概要
浄土宗寺院の寳秀寺は、久應山攝取院と号します。寳秀寺は、杉山神社の別当寺だった寶秀庵を、秀蓮社清譽上人達道和尚(文禄4年1596年寂)が天正年間(1573-1592)に寶秀寺と改めて開山したといいます。
山号 | 久應山 |
---|---|
院号 | 攝取院 |
寺号 | 寳秀寺 |
住所 | 横浜市神奈川区六角橋5-10-27 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 月影幼稚園 |
寳秀寺の縁起
寳秀寺は、杉山神社の別当寺だった寶秀庵を、秀蓮社清譽上人達道和尚(文禄4年1596年寂)が天正年間(1573-1592)に寶秀寺と改めて開山したといいます。
新編武蔵風土記稿による寳秀寺の縁起
(六角橋村)寶秀寺
村の西より神大寺村界にあり、浄土宗同郡神奈川町慶運寺末、久黄山攝取院と號す、開山清譽と云、文禄四年四月八日寂す、本尊三尊彌陀木の立像にして長三尺なるを安す、惠心僧都の作と云傳ふ、本堂は東向六間に六間半なり。(新編武蔵風土記稿より)
神奈川区史による寳秀寺の縁起
久応山摂取院宝秀寺(浄土宗) 六角橋五丁目一〇番地の二七
沿革 開山は秀蓮社清誉上人達道和尚という。
天正年間、清誉上人達道和尚が来住して、浄土宗の一宇として宝秀寺となしたという。
然し屢々無住であったこともあって什宝、古文書類、過去帳にいたるまで散逸して沿革も明らかにすることが山来ぬ。(神奈川区史より)
「横浜市史稿」による寳秀寺の縁起
寶秀寺
位置
寶秀寺は、久應山攝取院と號し、神奈川區六角橋町字寺下八百二十一番地に在る。境内は一段二畝步。神奈川町慶運寺末で、寺格は能分十等である。
沿革
開山は秀蓮社淸譽上人達道和尙である。寺傳に據れば、元は寶秀庵と稱し、杉山明神の別當所であつたのを、天正年間に至り、達道と云ふ僧が來往して、庵を革めて淨土宗の一宇となしたと云ふ、其後幾多の變遷を重ね、屢〻無住であつた事もあつたので、什寶・舊記・靈簿に至る迄殆ど皆散逸し、沿革等も不明となつた。今の本堂は第十一世事阿聽眞和尙の代、享保九年五月の再建である。
本尊
本尊は阿彌陀如來坐像、長一尺五寸、傳に惠心作で。脇士觀音・勢至の立像は、各〻
長一尺である。
堂宇
今の堂宇は、本堂桁行五間半、梁間六間、茅葺、四注造、向拜附。・庫裡桁行四間半、梁間九間半、茅葺。・廊下桁行四間、梁間九間、亞沿葺。門桁行九尺、梁間九尺、亞沿葺。等である。(「横浜市史稿」より)
寳秀寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「神奈川区史」
- 「横浜市史稿」