吉祥山慶運寺。フランス領事館、浦島寺、旧小机領三十三所子歳観音霊場
慶運寺の概要
浄土宗寺院の慶運寺は、吉祥山芳艸院と号します。慶運寺は、芝増上寺第三世定蓮社音誉聖観が永享年間(1390-1440)から文安年間(1441-1447)にかけて創建したといいます。定蓮社音誉聖観は、神奈川宿瀧村称明寺の運誉に従って剃髪、摂州兵庫に西光寺を創建、橋場保元寺二世となった後、慶運寺を創建したといいます。慶長4年(1599)に徳川家康より寺領7石を拝領、多くの末寺を擁する中本寺格の寺院でした。江戸時代末期の横浜開港に際して、慶運寺がフランス領事館として供用されていました。明治期に入り、浦島太郎の伝説が伝えられていた観福寺(浦島寺)を合寺したことから、当寺に浦島太郎の伝説が残されています。旧小机領三十三所子歳観音霊場9番です。
山号 | 吉祥山 |
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院号 | 芳艸院 |
寺号 | 慶運寺 |
住所 | 横浜市神奈川区神奈川本町18-2 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | かつてフランス領事館として供用、浦島太郎伝説 |
慶運寺の縁起
慶運寺は、芝増上寺第三世定蓮社音誉聖観が永享年間(1390-1440)から文安年間(1441-1447)にかけて創建したといいます。定蓮社音誉聖観は、神奈川宿瀧村称明寺の運誉に従って剃髪、摂州兵庫に西光寺を創建、橋場保元寺二世となった後、慶運寺を創建したといいます。慶長4年(1599)に徳川家康より寺領7石を拝領、多くの末寺を擁する中本寺格の寺院でした。江戸時代末期の横浜開港に際して、慶運寺がフランス領事館として供用されていました。明治期に入り、浦島太郎の伝説が伝えられていた観福寺(浦島寺)を合寺したことから、当寺に浦島太郎の伝説が残されています。
新編武蔵風土記稿による慶運寺の縁起
慶運寺
成仏寺の隣寺なり。浄土宗京都知恩院末、吉祥山芳艸院と号す。開山定蓮社音誉聖観は江州甲賀郡の人にて、父を望月外記と云。この人中年に及ぶまで子なかりしにより、同郡瀧の神に祈誓して上人をまうけたり。7歳の時母を失ひ、9歳にして同所瀧村称明寺の運誉に投じて薙染し、15歳のころ江戸に来り芝増上寺に遊学し、終にその器をなせり。後故郷に帰り、俄に足の病ありて一歩もあゆむことを得ず、ここにおひて瀧のもとに至りて丹精をこらし誦経せしかば、病立ところに癒たり。それより摂州兵庫に至りてかの地に西光寺を草創し、其後ふたたび江戸へ至り、橋場法源寺(現保元寺)の第二世となり。又この後当寺を開闢せり。師もとより和歌の道を好めり。たまたま太田持資入道江戸に住せし頃、師を信ずること甚篤し、文明6年6月17日江戸歌合作者の其一なり。こののち文明11年7月2日江戸増上寺にて寂せり。辞世の歌あり。火宅には又もや出こん小車の、乗り得てみれば我があらばこそ。以上の事跡等にて考れば、当寺の開闢は永享年中より文安の頃までにあるべしと寺傳にもいへり。本堂は8間に9間南向なり。本尊弥陀は3尺2寸の立像なり。2菩薩の像あり、長2尺8寸ずる是も古物なり。この余内佛に阿弥陀一体あり。立像にして長2尺8寸許聖徳太子の御作なりと云傳ふ。門9尺西南に向へり。当寺寺領7石の御朱印は慶長4年賜はれり。
鐘楼。本堂に向て左にあり。今の楼は仮に作りしものなれば造作もいと疎なり。鐘は第二十一世中興開山是惑の建立するところにして、延宝三乙宇稔七月十六日の数字を刻せり。
熊野社。門を入て向ひにあり。9尺四方、本地佛三尊の弥陀を安ず。中尊8寸脇士4寸づついづれも木像なり。
地蔵堂、同邊にあり。
寺中寂浄院。今此一院なり。昔はこの余に直心院観音院蓮生院とて三院ありしが今は廃せり。(新編武蔵風土記稿より)
「神奈川区史」による慶運寺の縁起
『新編武蔵風土記稿』に当寺の開創の時を、「永享年中ヨリ文安ノ頃マデニアルベシト、寺伝ニモイヘリ」として、開山定蓮社音誉聖観の事蹟からも推定をしている。
連歌師宗牧の『東国紀行』天文十四年(一五四五)三月三日に後北条氏の小机城衆が、宗牧の旅宿を慶雲寺に用意させたことが記されているが、慶運寺が神奈川における大寺であったためであろう。
慶長四年(一五九九)には徳川氏から寺領七石の朱印状を下付されている。明暦三年(一六五七)には火災によって堂宇をはじめ全てのものを焼失してしまった。
第二一世遍蓮社広誉上人が復旧し、延宝三年には梵鐘をも造立して中興した。
宝暦年中朝鮮使節の宿所に当てられる。
境内に塔頭があったが文政の頃には唯だ一院を残こすのみとなっていたが、明治維新の際、境内にあって別当をつとめた熊野神社も塔頭も廃絶した。横浜開港にともないフランス領事館に引当てられた。
第三三世然誉上人の時、境内を鉄道用地に収用されて狭められた。
明治五年十一月八日無壇無住の寺院廃止令によって観福寿寺一名浦島寺が(慶応三年春、類焼のため灰燼となったため廃絶したので)もと神奈川本陣の主人であった石井直方が再建幹事になって、当寺に一宇の堂を建立して、これを併合した。(「神奈川区史」より)
「横浜市史稿」による慶運寺の縁起
慶運寺
位置及寺格
慶運寺は、吉祥山茅草院と號し、神奈川區神奈川町字飯田町八百五十番地にある。境内は八百四十七坪。總本山知恩院の末寺である。
沿革
寺院明細帳には、後花園天皇の御宇、文安四年、音譽聖觀上人の草創した所と記してあるが、新編武藏風土記稿には、音譽の事蹟等から考へて見れば、當寺の開闢は、永享年中から文安の頃までゞあらうと寺傳に云つてゐるとある。天文十四年三月三日に、宗牧が當寺に宿つたことは、政治編一に述べた所である。慶長四年に、德川氏より寺領七石の朱印狀を附けられた。明曆三年、祝融の災に罹り、堂宇・坊舍・什器・文書等悉く燒失したが、第二十一世廣譽が中興し、延寶三年に、梵鐘を造立した。寶曆年中、朝鮮使節の宿所に當てられた時、表門を建設した。往時は直心院・觀喜院・蓮生院・寂淨院等、四箇の塔頭があつたが、文政の頃は、唯、寂淨院のみが殘り、其他は旣に癈絕に歸して居たといふ。開港當時、佛國領事館に充てられたことがある。往時より境内に熊野神社の鎭座があつてこれを進退して居たが。明治維新の際分離した。同年、塔頭寂淨院が癈絕した。大正十二年九月一日の大震災に、鐘樓及び觀音堂が倒潰した。舊時は末寺十一箇寺、孫末四箇寺を有して居たが、現今は末寺九箇寺、孫末三箇寺を總持してゐる。
本尊
本尊は阿彌陀如來の立像で、高三尺二寸。脇侍は觀音菩薩・勢至菩薩の立像で高各〻一尺八寸。
風土記に「内佛阿彌陀如來立像、長二尺八寸許、傳聖德太子作。」と載せてあるが、今は見えぬ、(「横浜市史稿」より)
「神奈川区宿歴史の道」掲示による慶運寺の縁起
慶運寺は、室町時代に芝増上寺第三世音誉聖観によって開かれた。京の連歌師谷宗牧は、「東国紀行」の天文14年(1544)3月3日の条に「ほどなくかな川につきたり、此所へもこづくへの城主へいひつけられ、旅宿慶運寺にかまへたり」と書いている。開港当初はフランス領事館に使われた。
また、浦島寺とも呼ばれている。浦島太郎が竜宮城より持ち帰ったという観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっている。(「神奈川区宿歴史の道」掲示より)
合寺した観福寺について
合寺した観福寺は、もと慶運寺の末寺で、神奈川宿並木町にあったといいます。観福寺には、浦島太郎の伝説が伝えられていたことから、浦島寺と呼ばれていたといいます。(跡地には、蓮法寺があります)
観福寺
西側なり。大門前数町の間は年貢地なり。浄土宗宿内慶運寺末、帰国山浦島院と号す。昔は真言宗にて檜尾僧都の開闢なりと云。されどそれはいとふるきことなれば詳なる故を傳へず。後白幡上人中興せしよりこのかた今の宗門に改めしとなり。当寺を浦島寺といひて縁記あり。その文にかの丹波国与佐郡の水の江の浦島が子のことを引て、さまざまの奇怪をしるせり。ことに玉手箱など云もの今寺宝とせり。いよいようけがたきことなり。
観音堂。丘の上にて門の正面にあたれり。則ち当寺の本堂なり。巽向にて3間四方、本尊1尺3寸木の立像なり。縁起に龍宮より出現せしと云へり。もとよりとるべきことなし。
石階。観音堂の前にあり。その中腹に昔は仁王門ありしと云。この門いつの頃か廃せしより後は金剛の像をば客殿に収め置く。又丘上に昔は鐘楼ありしがこれも今は廃せり。鐘も文化10年改鋳しのみにて未再造のことに及ばず。
客殿。観音堂に向て右の山上にあり。阿弥陀を安ず。坐像にて長3尺余なり。
龍燈松。後の山上にあり。往昔海上よりしばしば龍燈あかりしことあり、故に此名あり。この樹の邊に四阿屋あり。ここよりのぞめば海面を眼下に見をろして景色いとよし。(新編武蔵風土記稿より)
慶運寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「神奈川区史」
- 「横浜市史稿」