竹嵓山禅林寺。源持氏が創建
禅林寺の概要
曹洞宗寺院の禅林寺は、竹嵓山と号します。禅林寺は、源持氏が創建、善藝(永正9年1512年寂)が開山、伊丹三河守永親(法名禅林寺雲岸宗悦大居士)が中興開基したといいます。金沢三十四所観音霊場17番です。
山号 | 竹嵓山 |
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院号 | - |
寺号 | 禅林寺 |
住所 | 横浜市金沢区釜利谷東6-40-32 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
禅林寺の縁起
禅林寺は、源持氏が創建、善藝(永正9年1512年寂)が開山、伊丹三河守永親(法名禅林寺雲岸宗悦大居士)が中興開基したといいます。
新編武蔵風土記稿による禅林寺の縁起
(坂本村)禅林寺
除地、會下にあり、禅宗曹洞派、下總國關宿東昌寺末、竹嵓山と號す、當寺は源持氏の建立にて、開山を善藝と云、本寺開山良庵禅師の上足なり、永正九年十一月二十六日示寂す、中興開基伊丹三河守永親は、永禄六年閏六月、長暦に閏月は十二月とあり、十八日卒す、禅林寺雲岸宗悦大居士と謚せりと云、又江戸淺草寺の傳へに云、智楽院権僧正忠尊は、伊丹三河守永富(當寺の傳に政富は永親の子と云)がこにて、紅葉山東照宮の御別當を兼帶し、寛永年中當村御神領となりし後、其父菩提の爲禅林寺を草創し、十石の地を寄附せしと云、當寺の傳と異なり、按に當寺は忠尊が父祖の菩提所なるをもて、修理なと加へしを傳へ誤りて此時草創せしといえhるならん、永富が事跡詳ならず、【伊丹家譜】には三河守永親、及三河守政富と稱せしもの所見なし、但因幡守永親といへるものあれど、台徳院殿に奉仕すといへば年代違へり、おもふに三河守永親は【北條役帳】に載し、當所の地頭伊丹右衛門大夫と同時の人と見ゆれば、此人の親族なとなるべし、本堂八間半に六間南向、本尊華厳釋迦、長一尺五寸、行基の作と云、本堂の内に東照宮の御畫像を安置し奉れり、御束帶の御姿なり、こは御神領なる故何の頃よりか置奉ると云、四月十七日御祭事あり。
鐘。本堂の軒に掛、もとは上總國望陀郡蔵波村八幡社の鐘なりしを、何の頃よりか當寺のものとなれり、應永二十年の銘文あれど、享保七年に鑄直し、殊に文中考證とすべきことなければ爰に略す。
衆寮。本堂に向て左にあり、六間に四間半。
白山社。境内の鎮守なり、門に向へは右にあり、前に鳥居を立。(新編武蔵風土記稿より)
禅林寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵国風土記稿