知足山龍華寺。横浜金沢七福神の大黒天、東国八十八ヵ所
龍華寺の概要
真言宗御室派寺院の龍華寺は、知足山彌勒院と号します。龍華寺は、治承年中(1177-1181)鎌倉右大将頼朝が瀬戸神社を勧請した際に、別当寺として浄願寺と号して創建したといいます。文明年間(1469-1486)法印融辨の代には光徳寺を兼帯したものの、戦乱により両寺とも罹災、明応8年(1499)に法印融辨が中務丞資方篤信の助力を得、両寺を合併、後土御門院の勅命により知足山龍華寺と号して建立したといいます。江戸期には寺領5石の御朱印状を拝領、古義真言宗(真言宗御室派)の檀林所だったといいます。東国八十八ヵ所霊場78番、横浜金沢七福神の大黒天、金沢三十四所観音霊場6・7番です。
山号 | 知足山 |
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院号 | 彌勒院 |
寺号 | 龍華寺 |
住所 | 横浜市金沢区洲崎町9-31 |
宗派 | 真言宗御室派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
龍華寺の縁起
龍華寺は、治承年中(1177-1181)鎌倉右大将頼朝が瀬戸神社を勧請した際に、別当寺として浄願寺と号して創建したといいます。文明年間(1469-1486)法印融辨の代には光徳寺を兼帯したものの、戦乱により両寺とも罹災、明応8年(1499)に法印融辨が中務丞資方篤信の助力を得、両寺を合併、後土御門院の勅命により知足山龍華寺と号して建立したといいます。江戸期には寺領5石の御朱印状を拝領、古義真言宗(真言宗御室派)の檀林所だったといいます。
新編武蔵風土記稿による龍華寺の縁起
(洲崎村)龍源寺
當村と町屋村の間湖水の傍にて村内に屬せり、古義真言宗京都仁和寺の末、檀林所なり、知足山彌勒院と號す、寺領五石は村内にて賜へり、本尊大日運慶の作なり、始龍華寺と稱し後今の寺號に改む、開山辨譽寂年を傳へず、中興開山融辨大永四年八月朔日寂す、當寺畧縁起云、知足山龍源寺者、人王八十代高倉院御宇、治承年中鎌倉右大将頼朝、伊豆國三嶋大明神を崇敬ありて、武州金澤の瀬戸に勧請し、社頭御造営の後、常に法味を進め奉らん事を請て、伽藍建立の浄願を廢して、文覺上人と共に志を合て、文治年中六連の山中に精舎佛閣を建立して彌勒菩薩を安置し、都牽の四十九院になぞらへ、四方に六人の僧坊を構へ浄願寺と號し、數多の庄園を寄て佛像靈寶を納め給ふ、則中将姫の繍繪の曼荼羅、大師自彫の愛染明王是等の中に於て秀逸たり、堂舎甍を置て彩壁の月の光を移し、伽藍博敞にして丹柱星の林をなせり、禅観の席には衆僧法衣の袖をつらね、説法の庭には貴賤肩を摩て群をなす、正嘉年中に南都の忍性律師當山に住して戒を弘め、弘長二年には東寺の能禅法印此寺に於て住持辨譽阿闍梨のために堂上護摩を修行す、後文明年中法印融辨住持をして、印融僧都の付屬に寄て光徳寺を兼帶せらる、然といへども寺院精舎火災にかかり、殊更兩院の寺料理時々の亂世に奪れ、漸残れる庄園も他所に展轉して、さしもの勝地既に荊棘の野となりなんとせしに、明應八年に至て融辨退轉せんことを歎き痛み、本尊に祈りて深く冥助を願はれしかば感應顕然として菅原の朝臣中務丞資方篤信を廢し、辨師と力を合伽藍を再興せんと企る所に、本尊彌勒大士夢中に白毫より金色の光を放ちて辨師に告給ひしは、艮に當りて彼所に移して三密の法燈を挑へしと、夢さめて其所を伺はるるに、新燈の奇瑞あり、辨師本尊の教に從ひ此所に来り二町四方結界して、兼帶の二箇寺を一寺となし、兩院の僧坊を一列として、後土御門院勅命を蒙り、知足山龍華寺と號し、廣澤の法水を酌て佐々目の一流を味ひ、師資相傳の本尊聖教を納めて善融法印に附属す、又融師享禄五年には、東寺寶菩薩院亮惠僧正を請して傳法灌頂を受、天文十二年には古尾谷中務小輔平重長を檀越として洪鐘を鋳改む、境内には古木高く聳え覺樹の粧をしめし、緑の竹緑の色をなし、(此間欠)本堂の檀主太田道灌居士不動明王まで寄附す、(此間欠)東照宮御入國の初天正十九年の冬、當寺に入御ありて寺號を御尋の時、奏者龍華寺を誤りて龍源寺と言上す、神君聞しめして此をりから此寺號を以て執奏する立源氏といへる音の響あり、吉兆の寺號感應通すとて、御感悦のあまり御修復の経營幷御朱印下し置れて、是より改めて龍源寺と名付はへりぬと云、按に前に載る縁起中天文十二年古尾谷云々と云、後の鐘銘に據ればこれに訛にて天文十年なるべし、又元和以前龍華寺を改て今の寺號となりし傳へはいかがあらん、正保年間のもの龍華寺領と記し、【鎌倉志】又龍華寺とのせたれば、この後改めし寺號なるべし、【鎌倉志】にも當寺は太田道灌修復せらる、故に道灌の位牌あり、表に春苑道灌菴主靈、裏に文明十八丙午七月二十六日と見ゆ。
寺寶。
兩界曼荼羅二幅。唐畫なり。
涅槃像一幅。是も唐畫なり。
十三佛繍像一幅。中将姫製すと云。
八祖畫像一幅。弘法大師の筆とも願行の筆なりとも云ふ。
不動畫像一幅。弘法大師筆なり、表階の裏書に太田道灌寄進とあり、寺僧の云東照宮御覧ありて修復したまふ、其時十三佛の繍像も修復したまふとなり。
愛染明王木像一軀。弘法五指量の作と云、こは木像の長大師一握の長さに限れるを云となり。
鳳凰頭二箇。運慶作。
龍頭十箇。同作、この二種ともに木にて作る、金箔を置る物なり、灌頂の時幡を掛る具なり。
鈴一箇。弘法大師所持と傳ふ。
鐘楼。堂に向て左にあり、銘文左に載す。(銘文省略)
八幡社。堂に向て右にあり、境内の鎮守なり、小社。
稲荷社。同じ並びにあり、これも小社なり。
塔頭
華蔵院。門を入て左にあり、水照山と號す、本尊不動。
福壽院。門を入て右のとりつきにあり、本尊正観音弘法大師母堂の作と云、徳海山と稱す。
引攝院。福壽院に續けり、本尊大日海蔵山と號す、開山義辨永正四年九月二十日寂す。
光徳寺。堂に向て右にあり、龍燈山と稱す、本尊三尊の彌陀は信濃國善行寺の寫、關東四十八靈佛の内と云、二尺許の立像なり。(新編武蔵風土記稿より)
龍華寺所蔵の文化財
- 梵鐘(神奈川県重要文化財)
- 絹本著色融辨和尚像(横浜市指定有形文化財)
- 木造地蔵菩薩坐像(横浜市指定有形文化財)
- 木造弥勒菩薩坐像(横浜市指定有形文化財)
- 木造大日如来坐像(横浜市指定有形文化財)
梵鐘
文字は彫がやや細く、誤字があって読みにくいが、第四区に「天文十年辛丑五月五日 當寺住法印権大僧都善融 旦那 古尾谷中務少輔平重長道伝」とある。第三区にある梵文は左行より読みだすように刻まれており、最左が「光明真言」、中が「大随求陀羅尼」、右が「三十七尊総陀羅尼」である。
作風は、口径の鐘身に対する比142.2%という丈高である。
一見極めて粗雑なできであるのは、鐘ばなしのままで仕上がしてないのである。
銘文に刻む天文のころのものと思われない古様式の鐘であり鎌倉を中心とした地域特有の上下帯をもち、口径と鐘身の比、鐘身高と撞座高との比からみて、鎌倉時代末の作鐘とみられる。その後、当寺の鐘となった。(境内掲示より)
絹本著色融辨和尚像
法衣を着て、上畳上に坐り、右手に扇子、左手に五鈷杵をもっている。これは、当時中興開山融辨和尚没(一五二四)後、間もなくの肖像と思われる。
描法は、大和絵様式の似絵風であるが、墨彩色を多用するなど、どこか禅林頂相の趣が感ぜられる。
近年改装されているが、中世末葉(室町時代)における当地域の文化水準を示す優作である。(横浜市教育委員会掲示より)
木造地蔵菩薩坐像
本像は、境内の地蔵堂の本尊で、右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、岩座上の蓮台に安坐しています。光背は輪光で、持物・台座・光背などは後から補われたものです。また、左手の第二・三・四・五指の各指先は欠失しています。
首臍内側及び頭部内の墨書銘から、大永四年(一五二四)に仏師上総法眼が造立したことがわかります。作者の上総法眼は鎌倉の仏師で、名は宗琢といい、永正十年(一五一三)の藤沢市江島神社八臂弁財天坐像彩色、天文十八年(一五四九)の鎌倉市大長寺北条氏綱夫人坐像の造立などの事績が知られています。本像は衣の皺の表現に宋元風の特色がよく示されています。
造立年代・作者ともに明確な室町彫刻として、資料的価値の高い作品です。なお、胎内納入文書によれば、本像はもと須崎村の地福寺(廃絶)に祀られていた像で、元禄八年(一六九五)と天保六年(一八三五)とに修理されています。(横浜市教育委員会掲示より)
木造弥勒菩薩坐像
本像は、銅像の宝冠をかぶり、腹前の両手上に宝塔をのせ、両袖と裳裾を垂下した蓮台に安座しています。宝髻と法衣垂下部左方つけ根の一部、また光背に欠失がみられます。銘文はありませんが、胎内納入文書のうち2種の朱書願文には奥書があります。
像は、複雑に刻んだ衣の皺や法衣垂下の形式に宋元風の特色がよく示しており、柔軟な写実性を欠くものの彫技は丁寧であり、願文の書かれた明応9年(1500)頃の造立とみられます。寺蔵の「金沢龍源寺略縁起」によれば、古くからあった浄願・光徳両寺が退転したため、明応8年に融弁が資方の助力を得、両寺を合併して新しく建立したのが龍華寺だといわれ本像は当寺誕生時に造られたことになります。
室町時代の典型的な法衣垂下像の佳例として、本像の価値は極めて高い。(横浜市教育委員会掲示より)
木造大日如来坐像
本像は、江戸時代初期の元和6年(1620)に、それまでの本尊弥勒菩薩坐像に替えて龍華寺本尊に迎えられた金剛界大日如来像です。
造像の形式の多くは、安元2年(1176)年運慶作の奈良・円成寺像(国宝)をはじめとする平安時代最末期、鎌倉時代初期の奈良仏師ないし慶派仏師の大日如来像に共通するところが多くあります。また、体部材から膝の高さで底板を刳り残す、いわゆる上げ底式内刳りの技法は、文治5年(1189)運慶作の横須賀市・浄楽寺阿弥陀如来像(重要文化財)に初めて見られ、以後運慶系統の作品にしばしば見られるものです。
本像は、鎌倉時代前期のすぐれたできばえを示し、銘記や納入文書が龍華寺の歴史に関する重要な情報を含む点をあわせて、きわめて貴重な作品です。(横浜市教育委員会掲示より)
龍華寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵国風土記稿