稱名寺。北条実時邸宅内に創建、東国八十八ヵ所霊場
稱名寺の概要
真言律宗寺院の稱名寺は、金澤山彌勒院と号します。稱名寺は、北条実時(1224-1276)が邸宅内に設けた阿弥陀堂を創始とし、その後審海上人妙性律師が真言律宗寺院として開山、元亨3年(1323)には七堂伽藍を備えたといいます。広大な寺領を有し、徳川家康よりも寺領100石の御朱印状を天正19年(1591)に拝領していたといいます。東国八十八ヵ所霊場75番、金沢三十四所観音霊場1・2・3番です。
山号 | 金澤山 |
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院号 | 彌勒院 |
寺号 | 稱名寺 |
住所 | 横浜市金沢区金沢町212-1 |
宗派 | 真言律宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
稱名寺の縁起
稱名寺は、北条実時(1224-1276)が邸宅内に設けた阿弥陀堂を創始とし、その後審海上人妙性律師が真言律宗寺院として開山、元亨3年(1323)には七堂伽藍を備えたといいます。広大な寺領を有し、徳川家康よりも寺領100石の御朱印状を天正19年(1591)に拝領していたといいます。
新編武蔵風土記稿による稱名寺の縁起
(寺前村)稱名寺
境内六萬八千百四十六坪餘、金澤山彌勒院と號す、古義真言律宗にて南都西大寺の末なり、當寺草創縁起に云、金澤稱名寺は人皇八十九代亀山帝御宇北條時政四代の末孫北條越後守平朝臣實時、本願にて其子入道正五位下行前越後守平顕時文永中に力を戮せて七堂伽藍の大梵刹を創建云々、開山審海上人妙性律師と號す、師の行徳律家には棟梁となり、密家には名匠となり、朝昏の勤業怠ことなく若干の靈験ありしかは、亀山帝叡慮浅からず實祚萬歳の勅願所となれり、唐船三艘着岸せし時持来りし今の本尊一切経及び佛繪佛道具等勅命により悉くこの靈場に納りしと云々、本願主實時は建治二年十月二十三日卒し、稱名寺殿正惠大禅門と稱す、其子顕時家號を金澤と改め、正安三年三月二十八日卒す、法名慧日大禅定門、開山審海は正安の頃六月三日の寂とのみ傳ふ、當寺所蔵文書の内元弘三年寺領免許の状にも、當寺自元爲勅願寺之上、當殿殊可被祈祷之誠精、就中寺領等當知行地、領掌不可有相違物云々と見えたり、されば寺領も古くより數多ありしなるべけれと、その寄附せられし始を悉くには詳にせず、今姑く文書に出たるものをいはば、正和四年二月一日實時の後家慈性尼、下總國埴生庄内山口郷幵に南すだちの村を寄附し、元亨三年六月二十日相模守高時修理権太夫貞顕奉て、多胡平二郎四郎氏家所領を寄附せられ、正慶元年二月十六日武蔵守貞将下總國下河邊庄内赤岩郷(永享十一年寄進状には赤岩十四ヶ村とあり)信濃國石村郷武蔵國六浦庄富田郷(今者稱蒲里谷)を附し、正平二十六年二月廿七日右馬頭某六浦庄内釜里谷(前の富田郷の事なるべし)金澤兩郷を寄附すとあり、此餘建武二年四月の文書に、下總國東庄上代郷内田八段半云々、去正和三年九月十八日東六郎盛義沾却、同十一年二日安堵下知状、同四年十月十五日沾券状、同五年七月廿三日下知状無相違之間送知行年序之處云々と載せ、及永徳元年八月三日の状に、金澤稱名寺領加賀國軽海郷奥刑部少輔長康所領上總國金田保内高柳郷同國佐貫郷内百貫文下地相轉事、互證文分明の上者、領掌不可有相違云々とあり、殊に軽海郷は別に貞和四年御年貢結解と云もの添たれば、是等皆往古よりの寺領なる事明けし、【小田原役帳】には金澤稱名寺領七十七貫文、久良岐郡金澤に伏す、其餘幻庵御新造知行分百三十六貫九百五十文久良岐郡金澤稱名寺分壬寅検地辻と載たり、これによれば當時寺領の外幻庵内室の知行をも抱持しこと知らる、天正十九年御朱印寺領百石を賜はりしは全く七十七貫文の地を石高に改て賜ひしならん、元亨三年癸亥二月二十四日第三世律師湛睿結界の作法を行ふ時記せし圖あり、圖面表を入て向ひに池あり、池中に嶋あり橋を二カ所に架す、その向ひに金堂建り、此金堂は文保元年五月十五日本作始せし由来に載る文書に見えたり、金堂の向に講堂あり、右に方丈、左に兩界堂と云もの見ゆ、池の左の方に本堂あり、本堂の右に五重の塔聳へ、左に新宮あり、其の傍に別當建つ、五重塔の後の方に顕時貞時の石塔あり、其後の山間に文庫あり、又講堂の左にすこしき流を帶て、僧房並び立り、又其左に善光寺殿御廟とあり、山を隔て富士権現の社など見ゆ、又方丈の後の左方に本願同谷殿といへる石塔三基あり、裏面に記して曰、(裏面文省略)(新編武蔵風土記稿より)
教育委員会掲示による稱名寺の縁起
金沢山称名寺は、十三世紀半ばに創建された金沢北条氏一門の菩提寺で、「木造弥勒菩薩立像」(鎌倉時代、重要文化財)を本尊としています。
もとは、鎌倉時代の重臣北条実時(一二二四〜一二七六)が邸宅内に設けた阿弥陀堂から始まったと言われ、初めは念仏の寺でしたが、のち真言律宗に改められました。二代顕時(一二四八〜一三〇一)が受け継ぎ、三代貞顕(一二七八〜一三三三)の時代に大規模な造営が行われました。元亨三(一三二三)年「称名寺絵図」(重要文化財)には、苑池のまわりに七堂伽藍を配置した最盛期の称名寺の様子が描かれています。
また、寺に隣接して設置された文庫には、貴重な文物が収集されていました。その一部は、寺と神奈川県立金沢文庫に継承されています。
大正十一(一九二二)年、「称名寺絵図」に描かれた結界域と歴代金沢氏・住職の墓域が、ついで昭和四十七(一九七二)年には背後の山陵部や惣門付近が国の史跡に指定されました。(神奈川県教育委員会・横浜市教育委員会掲示より)
稱名寺所蔵の文化財
- 絹本著色北条実時像・北条顕時像・金沢貞顕像・金沢貞将像(国宝)
- 木造弥勒菩薩立像(国重要文化財)
- 銅鐘(国重要文化財)
- 金銅装宝篋印塔(国重要文化財)
- 弥勒来迎板絵(国重要文化財)
- 称名寺絵図並結界記(国重要文化財)
- 称名寺境内(国指定史跡)
- 称名寺庭園
称名寺境内
称名寺は、金沢山称名寺と号し、真言律宗の別格本山として西大寺末の律院で、本尊には木造弥勒菩薩立像(鎌倉時代、重要文化財)が安置されています。
本寺は、金沢北条氏一門の菩提寺で、草創の時期は明らかにしていませんが、正嘉二年(一二五八)、金沢氏の祖と称されている北条実時(一二二四〜一二七六)が、六浦荘金沢の居館内に営んだ持仏堂から発したと推定されています。
その後、称名寺の基礎が定まるとともに伽藍の整備が着手され、実時の子、顕時(一二四八〜一三〇一)の時代には、彌勒堂、護摩堂、三重塔などが建立され、さらに、顕時の子、三代貞顕(一二七八〜一三三三)は伽藍の再造営を行い、元亨三年(一三二三)には、苑池を中心として弥勒来迎板絵(重要文化財)に荘厳された金堂を初め、講堂、仁王門など、七堂伽藍を備えた壮麗な浄土曼荼羅にもとづく伽藍を完成させました。
しかし、元弘三年(一三三三)、北条氏の滅亡により鎌倉幕府の崩壊を契機として伽藍の維持が困難となり、江戸時代に入ると創建当時の堂塔の姿を失いました。
大正十一年、称名寺の内界である中心区域が国指定を受け、更に、昭和四七年、境内背後の丘陵を含めた範囲が指定されるとともに、昭和六二年には、庭園苑池の保存整備事業が行われました。(横浜市教育委員会掲示より)
称名寺庭園
称名寺の庭園は、元亨三年(1323)に描かれた重文「称名寺絵図並結界記」によって、伽藍の配置と共に完成時の姿を知ることができます。
庭園は、金沢貞顕の時代の文保三年(1319)から、翌年の元応二年にかけて造られました。
作庭には性一法師が携わり、青嶋石を使用した90数個の景石を、中島や池の周囲に大量の白砂と共に配置することなどを指示し、その満々と水が注がれた苑池には貞顕から贈られた水鳥が放され、ここに伽藍の美観の要とされる浄土庭園の完成が見られました。
苑池は金堂の前池として、浄土思想の荘厳のために設けられたもので、南の仁王門を入り、池を東西に二分するように中島に架かる反橋と平橋を渡って金堂に達するようになっています。
このような配置は、平安時代中期以降盛んになった、浄土曼荼羅の構図に基づき造られた浄土庭園の系列にあるもので、称名寺の庭園は、時代的に浄土庭園の基本的な形態を残す最後のものとして、庭園史上高い評価を得ております。(横浜市教育委員会掲示より)
稱名寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵国風土記稿