長秀山本法寺。江戸幕府より寺領5石の御朱印状
本法寺の概要
日蓮宗寺院の本法寺は、長秀山と号します。本法寺は、綱島太郞(小泉某)が日蓮上人に帰依、日蓮上人入滅後は日朗上人に従い、草庵を正応3年(1290)綱島に創建、綱島山法蓮房と号していたといいます。その後荒廃した草庵を鈴木丹後が当地に移して池上本門寺9世日純(天文9年寂)が開山、慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領5石の御朱印状を受領していました。
山号 | 長秀山 |
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院号 | - |
寺号 | 本法寺 |
住所 | 横浜市港北区小机町1379 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
本法寺の縁起
本法寺は、綱島太郞(小泉某)が日蓮上人に帰依、日蓮上人入滅後は日朗上人に従い、草庵を正応3年(1290)綱島に創建、綱島山法蓮房と号していたといいます。その後荒廃した草庵を鈴木丹後が当地に移して池上本門寺9世日純(天文9年寂)が開山、慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領5石の御朱印状を受領していました。
新編武蔵風土記稿による本法寺の縁起
(小机村)本法寺
村の字土井谷にあり、日蓮宗荏原郡池上本門寺末、長秀山と號す、開山日純は本山の第九世にして、天文九年三月二十一日寂すといへり、御當代に至りて寺領五石の御朱印を賜へり、時に慶安元年なり、本堂八間半に七間西に向へり、本尊三寶を安ず門は西向なり。
鐘楼。門を入て右にあり九尺四方、鐘に元文二年の銘文を彫る。
祖師堂。門を入て左にあり四間四方、宗祖日蓮の木像は坐像にして、長八寸、中老僧日法の作なり。
番神堂。門を」入て左にあり、祖師堂よりは西に當れり、三間に二間、神體は共に五寸許作知らず。
寺寶。日蓮消息一通。
塔頭。顯性坊。門前にありしと云、廢せし年月を傳へず。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿」による本法寺の縁起
本法寺
位置
本法寺は、長秀山と號し、神奈川區小机町一千四百二十四番地に在る。境内は二段四畝二十八步。官有地。池上本門寺で、寺格は紫金襴である。正應三年の草創である。其頃武州綱島村の鄕士小泉某俗に綱島太郞。なる者、深く日蓮に歸依して、其敎化に浴し、日蓮の滅後は、池上本門寺なる日郞の許に詣でて、尊信殊に厚かつたと云ふ。斯くて所領莊園の半を寄進し一草庵を建て、上人老後の閑地とせられんことを懇請した。上人は其請を容れ號を法蓮坊と賜うて、宗祖の尊像を安置し、妙宗の靈場とした。其後凡百五十年を經た頃、囘祿のため燒失し、宗祖の尊像は僅に雨露を凌ぐに足るばかりの草庵内に置いた。其後天文の頃に至り、小机城主笠原氏の旗下に鈴木丹後なる者、又無二の信徒で此靈像の一草房内に置いてあるを見るに忍びず、天文八年七月、池上本門寺第九世日純上人に請うて、この草庵を己れの領所小机村なる今の地に移し、一宇を建立して安置し、法蓮坊を改めて長秀山本法寺とした。故に當寺の初祖を日郞とし、日純を以て開祖とした。下つて元祿十六年十一月二十九日、震災の爲めに裏山崩壊し、祖師堂大破したので、安永二年五月、第十九世日雄代に之を再建し、二十一世日童の代に、鐘樓・山門等の再建を爲し、第二十六世日良の代、嘉永元年十二月、庫裡の造立があつた。開祖日純以來、法燈第二十八世に及んで居る。德川氏に至り、寺領五石の御朱印を賜はつて居た。尙、境内に顯性坊と稱する塔頭があつたが、いつの頃にか廢絕して、當寺に合併した。
本尊
本尊は三寶諸尊。
堂宇
本堂桁行七間、梁間七間半、草葺四注造。安永二年第十九世日雄代再建。・庫裡桁行六間、梁間十間、草葺。嘉永元年十二月第二十六世日良代再建。・鐘樓桁行二間、梁間二間、銅葺。明治三十三年六月第二十八世末崎快存代再建。・裏門桁行二間、梁間二間、茅葺。明治二十六年燒失、同三十三年快存代再建。・廊下桁行六尺、梁間十門。・物置桁行五間、梁間二間。等である。
境内堂
祖師堂。桁行四間、梁間四間。本尊は宗祖日蓮大菩薩。高祖の弟子中老僧日法の作、日郞上人の勸請佛である。左の緣起がある。抑〻當山祖師堂に安置し奉る日蓮大菩薩は、弘安五年十月十三日、日蓮上人池上右衞門大夫宗仲の家に於て御臨終の近きに在る事を知しめし、御讓狀を示し給へり。則、立像の釋尊、立正安國論、赦免狀等を孝弟日郞上人に遺附し給へり。此時日郞上人、高祖の御滅近きを悲しみ、孝道の尙全からざるを歎き、憂愁の色自ら顯はれ、孝心彌〻。切なり。吾祖是れを知しめし、自ら中老日法上人に彫刻を命じ、此れを遺附して曰く、吾今此像を汝に附す。則、吾魂魄永く之の像に止む。是亦不老不死の妙體なり。隨從孝養を務る事存生の如く、此像に奉事せよと。此遺命に依て、朗師は隨從孝養を務る事、存生の如く此像に奉事し、朝夕香華を供養し、讀誦讃經且つ怠りなし。茲に武藏國橘樹郡綱島村に、本宗熱心の信徒小泉某なる者、宿緣夙に發し、池上本門寺に日參し、會〻朗公の敎化に浴し、親む事數年、深く朗公に歸依し、遂に莊園の半ばを奉り、一宇を建立し、上人老後の閑地と定めん事を願ひしかば、朗師その懇切亦無二の信徒なるに感じ玉ひ、其の請を許し、號を法蓮坊と賜ひ、朝夕奉事せし吾祖の尊像を安置し、以て其の志に報ひ給へり。其後凡そ百五十年を經て、同祿の災に値ひ、堂塔悉く烏有に歸す。其の時根古屋小机の舊名。の城主笠原の旗下に、鈴木丹後と云へる本宗無二の信徒あり。偶〻其像に祈願し、感應あり。是に於て尊信の心を起し、豈斯の如き靈像を斯る草房に安置すべけんやと、二三の信徒と謀り、池上九代の貫主日純上人を請じ、一ヶ寺を草創し、祖師堂を建つ。上人之れに號を賜ひ、法蓮坊を改めて、長秀山本法寺とす。時に天文八年七月廿一日なり。此尊像種々の奇瑞靈威を顯し玉ふ事多しと雖、就レ中元祿十六年の如き、最も顯著なり。元祿十六葵未年十一月廿二日夜八時、大地震越レ日不レ止、廿九日朝五ッ時、當寺祖師堂の上、山崩大破す。其の夜に入り、山上にて誦經の聲あり。地震少し靜まり、顯性房を連行、是を聞者二三人同道して、山に行き尋ぬるに、松の木に祖師大菩薩居玉ふ。誠に古今稀代の尊像也。仍て後代のため崇敬記置者也。云々。
又祖師堂營繕募緣序に左の如くある。俄に山崩し、祖師堂土中に埋沒し、住職竝に信徒百事を抛ち、尊像を出し奉らんと慾すれ共、其深きを知るべからす。然るに其夜十二時頃、地震漸く靜まり、稍久しくして何處ともなく遙に、我、此土安穩、天人常住滿と、卽ち經文讀誦の響きあり。共音朗らかにして、凡人の聲にあらず。住職竝に信徒行き尋るに、不思議なるかな、吾祖の尊像堂後の松下に安住し玉ふを拜し、彌〻渇候の心を增進し、則、吾祖遺附の節、是れ不老不死の妙體なりとのたまひ、災變の時に及んで自然松下に安住し玉ふ。彼と云ひ此と云ひ、誠に不老不死の妙體にして、本門壽量の遠壽を顯し、三災四劫を出玉へる常住の佛體なれば、壽命長遠の擁護なからんやとて、自然厄除松壽日蓮大菩薩と稱し奉るなり。云々。
境内佛堂
稻荷堂。桁行六尺、梁間九尺、茅葺。本尊は長秀稻荷大明神當寺創立の時、山内鎭守として勸請したと云ふ。である。(「横浜市史稿」より)
本法寺所蔵の文化財
- 石造龍吐手水鉢(横浜市指定有形文化財)
石造龍吐手水鉢
手水鉢は、水穴の底にわだかまる龍と、側面に胴体をからませて首をもたげる龍を鉢と一石彫成し、上方の龍の胴体に菅孔を通して龍口から水を吐く構造になっています。
すべてを一石彫成したこの手水鉢は、巨石材を用いた大作であり、意匠性にすぐれ、伝統的石彫技術を誇る近代石造物の優作として貴重です。(横浜市教育委員会掲示より)
本法寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿」