観行山慈雲寺。明治元年神奈川町の大火により当地へ移転
慈雲寺の概要
日蓮宗寺院の慈雲寺は、観行山と号します。慈雲寺の創建年代等は不詳ながら、慶長17年の棟札が残されていたといいます。明治元年神奈川町の大火で罹災、大正14年当地へ移転したといいます。
山号 | 観行山 |
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院号 | - |
寺号 | 慈雲寺 |
住所 | 横浜市港北区仲手原2-17-25 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
慈雲寺の縁起
慈雲寺の創建年代等は不詳ながら、慶長17年の棟札が残されていたといいます。明治元年神奈川町の大火で罹災、大正14年当地へ移転したといいます。
新編武蔵風土記稿による慈雲寺の縁起
(新宿町)慈雲寺
(妙仙寺:現妙蓮寺と)同ならひにあり、これも本門寺の末寺なり、観行山と號す、開山の名及び年代を傳へざれど、慶長十七年六月十七日としるしたる棟札あれば、其頃は既に開闢ありしことしらる、近き頃日観と云僧客殿を再建せり、今これを中興開基とす、客殿七間に五間半巽向なり、本尊三寶を安ず。
寺寶
曼荼羅一幅。本山第十四世日詔の筆なり。
御手掛梅。本堂の前にあり、八重の紅梅なり、昔は春ことに住僧登城の時梅花を献ぜしと云。
鬼子母神堂。門を入って右にあり、二間に二間半、鬼子母神は一尺二寸許の立像なり、傳教大師の作といひ傳ふ、鎮守三十番神の像を相殿とせり、もとの御代官小泉次太夫吉次が寄附せる所なりと云。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿」による慈雲寺の縁起
慈雲寺
位置
慈雲寺は觀行山と號し、神奈川區篠原町字仲手原七百十四番地に在る。境内は九百二十三坪。民有地。池上本門寺末で、寺格は緋金五襴五等である。
沿革
開創の年代竝に開山・開基も詳かでない。新編武藏風土記稿に「開山ノ名及ビ年代ヲ傳ヘザレド、慶長十七年六月十七日ト記ルシタル棟札アレバ、其頃ハ旣ニ開闢アリシコト知ラル。近キ頃日觀ト云僧、客殿ヲ再建セリ。今之レヲ中興開基トス。客殿七間ニ五間半、巽向ナリ。」とある。然るに明治元年一月七日、神奈川町大火に類燒し、堂宇・什寶等悉く灰燼に歸し、中興以來の舊記等を失ひ、沿革全く不明となつた。同寺は元、神奈川町字神明町七百三十二番地に在つたが、現住第二十五世日量代、境内及び境地全部約一千坪の地と神奈川小學校敷地として、橫濱市に讓與し、大正十四年八月十二日、今の地に移轉した。
本尊
本尊は三寶尊である。(「横浜市史稿」より)
慈雲寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿」