虎石山龍松院。小机城主笠原能登守開基
龍松院の概要
曹洞宗寺院の龍松院は、虎石山と号します。龍松院は、小机城主笠原能登守(法名休徹金罷居士)が開基となり、大順宗用(永禄3年1560年寂)が文殊堂と称して創建、六世明山宗鑑(万治4年1661年寂)の代に一寺となり、慶安元年(1648)には寺領9石余の御朱印状を拝領したといいます。
山号 | 虎石山 |
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院号 | 龍松院 |
寺号 | - |
住所 | 横浜市港北区大倉山2-36-8 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
龍松院の縁起
龍松院は、小机城主笠原能登守(法名休徹金罷居士)が開基となり、大順宗用(永禄3年1560年寂)が文殊堂と称して創建、六世明山宗鑑(万治4年1661年寂)の代に一寺となり、慶安元年(1648)には寺領9石余の御朱印状を拝領したといいます。
新編武蔵風土記稿による龍松院の縁起
(太尾村)龍松院
村の西北の谷にあり、禅宗曹洞派小机雲松院末虎石山と號す、開山は大順宗用と云、永禄三年六月朔日示寂、此頃は文殊堂と稱して未だ一寺とはならざりしが、夫より六世を歴て明山宗鑑に至りて一寺となれり、慶安元年十月二十四日九石餘の御朱印を下し賜ふ、かかる功あるに因て、此僧をも亦開山と稱す、萬治四年四月二十三日示寂すと云、開基は當郡小机の城主笠原能登守法諡を休徹金罷居士と云、曾て能登守寇をさけて暫く隣村大曽根村に跡をひそめしゆへ、其頃かの大順と力を戮せて草創せしなり、後天正九年豆州戸倉の役にをもむき討死せり、時にわづか二歳の幼主を殘せしかば、家人伊東藤七なるもの力を盡して彼幼主を傳立、其後東照宮御上洛の時初て拝謁し奉り、都筑郡臺村にて新に二百石を賜ふこれを彌次郎と云、此等の事小机及び隣村大曽根村に詳なれば合せみるべし。客殿十間に六間戌の方に向ふ、本尊釋迦坐像を安ず長一尺六寸許。
寺寶
文殊像一軀。客殿に安ず、此像は開基笠原能登守が持佛なりしを當寺へ納めしと云。古文殊堂と唱へし頃の本尊なりと、獅子に乗たる像にていかにも古物なることは疑ひなし、長一寸八分許作詳ならず。
不動像一軀。鐵の鑄物にて中に其形を鑄出せし者なり、何れの頃何人の納めしや詳ならず、近村寺尾村の土人は巳が村の地頭諏訪右馬助が納めし所なりといへど、不動の姿の傍に千葉右馬介といへる文字見ゆ、しかるを右馬介とあるにより、只名のみをもてかく牽強するは恐くは非なるべし、されど當所にては是非ともに其来由を傳へざれば、今よりは辨じがたし、因て其圖を上にのせて後の考を俟のみ。(新編武蔵風土記稿より)
龍松院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿