圓瀧山興禅寺。横浜七福神の寿老神、武相不動尊、関東百八地蔵霊場、准秩父三十四観音霊場27、稲毛七薬師
興禅寺の概要
天台宗寺院の興禅寺は、圓瀧山光明院と号します。興禅寺は、天台座主慈覚大師円仁和尚が東国下降した仁寿3年(853)、当地に自刻の勝軍地蔵尊を当地に安置して開山したといいます。慶安2年に高7石の寺領を拝領していたといいます。武相不動尊7番、関東百八地蔵霊場86番、准秩父三十四観音霊場27番、横浜七福神寿老神、稲毛七薬師6番、都築橘樹酉年地蔵尊霊場10番です。
山号 | 圓瀧山 |
---|---|
院号 | 光明院 |
寺号 | 興禅寺 |
住所 | 横浜市港北区高田町1799 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
興禅寺の縁起
興禅寺は、天台座主慈覚大師円仁和尚が東国下降した仁寿3年(853)、当地に自刻の勝軍地蔵尊を当地に安置して開山したといいます。慶安2年に高7石の寺領を拝領していたといいます。
新編武蔵風土記稿による興禅寺の縁起
(高田村)興禅寺
境内一丁五段餘、御朱印地の内、村の東にあり、天台宗、橘樹郡駒林村金蔵寺末、圓瀧山と號し、光明院と稱す、客殿七間に六間半南に向ふ、本尊十一面観音立像にて長二尺餘、開山開基詳ならず、慶安弐年高七石餘の寺領を賜はれり。
愛宕社。客殿に向て左の方丘上にあり、高さ四間許の石階を登りて社前に至る、本地将軍地蔵木像にて長一尺五寸ばかり、社前に六面の手洗鉢あり、面ことに佛像一體づつを彫る、恐くは六地蔵にてもあらんか、石の厚みは六寸五分、高さ四尺ばかり、殊勝の古佛なり、下の方に文保の文字ありて、其餘は摩滅して見えず。
十王堂。客殿の向ひにあり、二間四方、木像にて各長八寸ばかり。
地蔵堂。境内に入て丘上にあり、文化十一年十一月本尊共に焼失していまだ再建せず。
石不動。南の方なる丘の半腹にあり、立像にて長二尺餘、丘上より筧にて清水を引来て垢離場とせり、此水耕地にそそぎて水田の養とせり。(新編武蔵風土記稿より)
新編武蔵風土記稿による興禅寺の縁起
興禅寺の沿革
本山は比叡山延暦寺、宗祖は伝教大師最澄和尚。当山は、圓瀧山光明院興禅寺と号し、特別寺。
寺伝によると、文徳天皇仁寿三年、天台座主慈覚大師円仁和尚が東国下降の折この地に錫を留め、自ら十一面観世音菩薩並びに勝軍地蔵の尊像を刻まれ安置したのが開山の始まりと伝えられる。
本尊十一面観音は安産観音として、昔より婦女子に慕われております。
度々の戦禍で壮大な伽藍を失うも、元応二年、時の領主桃井播磨守直常公により再興、文化三年二十二世證淵和尚によって密教造りの本堂に改築された。また、寺では明治四年頃まで寺子屋、二十三世興国亮淵和尚が境内の一画に高田小学校の前身「高田学舎」を設立、多くの男女が学んだ。
山門を入り右、「新編武蔵風土記稿」に、六面に地蔵尊の刻があり考古学者は石の幢の一部で石幢(せきどう)であると、鎌倉時代文保二年直常公寄進。
堂内には本尊十一面観世音菩薩、聖観世音菩薩、阿弥陀三尊、薬師如来、不動明王、地蔵尊、十王像、七福神等、多くの仏像が安置されている。
山門の高梁には七福神の彫刻、当寺は横浜七福神の福禄寿神。
雅楽会は明治時代から継承(横浜市民俗芸能認定)。(境内掲示より)
興禅寺の所蔵の文化財
- 雅楽(横浜市民俗芸能認定)
興禅寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 横浜市 港北区 港北区の七福神1
参考資料
- 新編武蔵風土記稿