長福院。横浜市港北区綱島台にある浄土宗寺院

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長福院。廃寺となった来迎寺地へ移転

来迎寺の概要

浄土宗寺院の長福院は、綱島山と号します。長福院は、寛永3年(1626)に小机の五六橋傍に創建、明治20年に廃寺となった来迎寺のあった当地へ移転したといいます。一方来迎寺は、飯田助太夫の発願により寛永元年(1624)に創建、稱譽(天和3年1683年寂)が開山しましたが、明治維新の際廃寺となっています。来迎寺は六阿彌陀靈場の第三番札所となっていました。

来迎寺
来迎寺の概要
山号 綱島山
院号 長福院
寺号 -
住所 横浜市港北区綱島台14-24
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



長福院の縁起

長福院は、寛永3年(1626)に小机の五六橋傍に創建、明治20年に廃寺となった来迎寺のあった当地へ移転したといいます。一方来迎寺は、飯田助太夫の発願により寛永元年(1624)に創建、稱譽(天和3年1683年寂)が開山しましたが、明治維新の際廃寺となっています。来迎寺は六阿彌陀靈場の第三番札所となっていました。

新編武蔵風土記稿による来迎寺・長福院の縁起

(北綱島村)来迎寺
字北谷にあり、浄土宗小机村泉谷寺末稱念山智光院と號す、本堂四間四方西に向ふ、本尊三尊の彌陀を安ず木の立像にて長一尺二寸、脇に観音勢至の像を置、開山は稱譽天和三年十二月十四日寂せり。
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(小机村)
長福院
五六橋の傍にあり、辻堂にて一寺と云ほどのことにはあらず、浄土宗にて泉谷寺の持なり、閻魔の像を本尊とす、堂は西向にて四間に三間半なり。 (新編武蔵風土記稿より)


「横浜市史稿」による長福院の縁起

長福院
位置及寺格
長福院は、綱島山と號し、神奈川區北綱島町千三百二十番地に在る。境内は七十八坪。民有地。區内小机町泉谷寺の末で、寺格は等外である。
沿革
當院は寬永三年五月の起立で、小机村五六橋の傍らにあつた。泉谷寺の持で、元は辻堂に過ぎず、本來無檀無祿で、堂宇の修覆等にも事缺くことが多かつたので、明治二十年十二月七日、其筋の認可を得て、今の地に移轉中興したのである。元、この地には、寬永元年、同所の豪士飯田助太夫の發願で建立した稱念山來迎寺と云ふものがあつたが、之も同じく無檀無祿で、維持に困難の爲め、明治維新の際、廢寺となつた。然るに其本尊阿彌陀如來は、六阿彌陀靈場の第三番札所として近鄕信仰の的となつて居たので、それ等の信徒が、深く此靈場の滅亡を惜しんだ。そこで明治十六年十月、内務省へ願濟の上、泉谷寺說敎所として再興した。會〻當長福院轉退に及ばんとした頃であつたから、雙方信徒の協議が成り、乃ち來迎寺の舊地に當院を移轉し、こゝに再興を見るに至つたのである。
本尊
本尊は阿彌陀如來立像長八尺五分。で、脇士は觀音・勢至像、各〻長六寸五分である。
堂宇
今の堂宇は、本堂桁行五間、梁間三間、草葺。のみで、明治二十年、飯田助太夫が私財を捐てゝ再建した所である。(「横浜市史稿」より)

長福院の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「横浜市史稿」