泉谷寺。横浜市港北区小机町にある浄土宗寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

松亀山泉谷寺。二宮織部正が開基、旧小机領三十三所子歳観音霊場

泉谷寺の概要

浄土宗寺院の泉谷寺は、松亀山本覺院と号します。泉谷寺は、元享年間(1321-24)の頃に本覚院として創建、二宮織部正が開基となり、父の菩提のため、見譽上人を招いて大永3年(1523)開山、泉谷寺と称したといいます。見譽上人は、飯沼弘経寺住職ともなった高徳の僧侶だといいます。寛永19年(1642)には江戸幕府より寺領15石の御朱印状を拝領、近隣に数多くの末寺を擁する中本寺格の寺院です。旧小机領三十三所子歳観音霊場初番です。

泉谷寺
泉谷寺の概要
山号 松亀山
院号 本覺院
寺号 泉谷寺
住所 横浜市港北区小机町256
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 小机幼稚園



泉谷寺の縁起

泉谷寺は、元享年間(1321-24)の頃に本覚院として創建、二宮織部正が開基となり、父の菩提のため、見譽上人を招いて大永3年(1523)開山、泉谷寺と称したといいます。見譽上人は、飯沼弘経寺住職ともなった高徳の僧侶だといいます。寛永19年(1642)には江戸幕府より寺領15石の御朱印状を拝領、近隣に数多くの末寺を擁する中本寺格の寺院です。

新編武蔵風土記稿による泉谷寺の縁起

(小机村)泉谷寺
村の西南字泉谷にあり、浄土宗京都知恩院末山なり、松亀山本覺院と號す、寛永十九年六月十八日寺領十五石の御朱印を賜ひしより、今にかはらずと云、されど其文によれば先規の如く寄附せられしよしを載す。もとより古き寺院にて、開山見譽は弘治二年八月二日寂せり、開基は二ノ宮織部正と云人なりと村の記録にあり、寺にては大永三年北條氏綱の開基といへり、氏綱の朱印もありしが火災にかかりて失せり。見譽は高徳の人にて、後奈良院の勅によりて飯沼の弘経寺へ轉せり。三代目看譽鎌倉光明寺へ移住せり、元和八年正月七日火災に什物舊記皆失せり。此寺郡界に跨りて、庫裡の方は都筑郡に属し、本堂の方は橘樹郡なり、故に寺にては都筑郡に屬すともいへり。
鐘門。門を入て左の方にあり、二間四方銘文あり、左の如し。(銘文省略)
八幡社。門を入て左にあり、境内の鎮守なり二間に二間半の社なり、神體は木にて刻めり長五寸許、辨天及び稲荷を相殿とす、前に鳥居を立、兩柱の間五尺許。
観音堂。是も同邊にあり、三間四方木の立像なり長二尺餘、慈覺大師作なりと云。
地蔵堂。是も同邊にあり、石地蔵三尺ばかりなるを安ず、わづかの小堂なり。
門。西に向ひてたてり、右の方は高き地にして左の方は耕地なり、道の左右に松と櫻とを植たること數十株、花の頃に至れば風景甚よし、故に此門前を土人櫻大門と云、此門前そこはく行けば冠木門あり、前に石階十一級あり。
通用門。同じならび右の方にあり北へ向へり。(新編武蔵風土記稿より)

「横浜市史稿」による泉谷寺の縁起

泉谷寺
位置
泉谷寺は、松龜山本覺院と號し、神奈川區小机町二百五十六番地に在る。境内は二千百坪。官有地。東京市芝區增上寺の末で、寺格は代々香衣勅許別格九等中本寺格である。
沿革
大永三年三月の草創で、開山は見譽悅公、開基は二宮織部正である。是れより先、織部正は父の菩提の爲め、一寺建立の志を起したところ、會〻此附近に元亭の頃、叡慧上人が開創したと傳ふる本覺院なる草庵があつたので、同僚鈴木但馬・沼上出羽の合力を得て、之を己れが古屋敷に移し、卽ち見譽場上人を請じて、開山に仰ぎ、改めて一寺とし、地名によつて泉谷寺と名づけ、舊號を塔頭に傳へ、此に至つて其素願を成就したと云ふ。寬永十九年六月十八日、德川氏より小机庄の内十五石の寺領、竝に山林・竹木免除の朱印狀を附けられた。當時近鄕に末寺百餘、塔頭四、庵室五を有し、關東觸頭三箇寺の一に居り、特に葵の紋章を附する事を許され、寺門興隆を極めた。然るに元和八年一月七日囘祿の厄に遇ひ、堂宇・什寶等悉く灰燼に歸した。第九世學法譽天情龍公が之を再建したが、天明年間、再び火災に罹つた。其後第二十世極譽惠頓の代に再建したのが、今の堂宇である。當寺には開山以來五世の間、僧侶の養成所なる檀林が設けてあつたが、五世の住僧が江戸淺草誓願寺へ轉じたと共に、檀林も亦同寺に移つた。慶應三年、關東十八檀林の一なる武州八王子瀧山、大善寺檀林衰頽により、これを當寺に移して復活せしめたが、是れ亦幾程もなくして廢絕した。現今は左の二十箇寺を統べて居る。
橘樹郡稻田村宿河原龍安寺
橫濱市神奈川區下菅田專稱寺
都筑郡都田村川和天宗寺
同郡新治村鴨居法國寺
同郡柿生村麻淨慶寺
橫濱市神奈川區小机町本心寺
同市同區菅田町西光庵
都筑郡都田村池邊宗忠寺
同郡同村東方源東院
同郡同所龍雲寺
都筑郡都田村池邊淨念寺
同郡同所念佛寺
同郡新田村吉田淨流寺
同郡同村新羽專念寺
橫濱市神奈川區菊名町蓮勝寺
都筑郡新田村高田長圓寺
同郡同村吉田淨泉寺
橫濱市神奈川區綱島町長福院
鎌倉郡川上村平戸光安寺
東京府下北多摩郡砧村喜多見慶元寺
塔頭には本覺院・涅槃堂・迎接庵・道心者庵があつたが、今は涅槃堂の建物のみ殘存し、他は何れも本寺に合併し、而して廢絕した。尙、當寺持の庵室に、榎堂・神隱堂・稻坂堂・東堂・阿彌陀堂があつたが、是れも明治の初め廢絕した。古來總本山知恩院の末であつたが、維新後、增上寺管理下に轉屬した。(「横浜市史稿」より)


泉谷寺所蔵の文化財

  • 板絵著色山桜図

板絵著色山桜図

泉谷寺は、松亀山本覚院と号し、元享の頃(1321-24)草創の庵本覚院を、大永三年(1523)開基二宮織部正が父の菩提のため、見譽上人を招いて開山とし、地名によって泉谷寺としたと伝えられています。
第二十六世立譽了信上人の代(天保五年(1834)〜天保十一年(1840))に本堂内陣と下陣の間の杉戸に、左右4面づつ8面、山桜に小禽が画かれました。向かって左の図には「一立齋廣重畫」と署名し、下に「東海堂」と朱印されています。この杉戸は初代歌川広重の傑作であり、浮世絵史上稀に見る杉戸にえがく大作です。
杉戸絵は、山内の杉を使用して作った板で、上下2枚に別々に画き、中央の横桟のところで接続しています。板には、胡粉を塗布した上に、墨線を以って画き、それに彩色を施しています。(横浜市教育委員会文化財課・横浜国際観光協会掲示より)

泉谷寺の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「横浜市史稿」