綱島山東照寺。都筑橘樹十二薬師霊場
東照寺の概要
曹洞宗寺院の東照寺は、綱島山と号します。東照寺は、大曽根大乗寺第3世生外意鉄大和尚が慶安2年(1649)に創建したといいます。都筑橘樹十二薬師霊場11番です。
山号 | 綱島山 |
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院号 | - |
寺号 | 東照寺 |
住所 | 横浜市港北区綱島西1-13-15 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | 東照寺会館 |
備考 | - |
東照寺の縁起
東照寺は、大曽根大乗寺第3世生外意鉄大和尚が慶安2年(1649)に創建したといいます。
新編武蔵風土記稿による東照寺の縁起
(南綱島村)東照寺
字別所谷にあり、曹洞宗にて、大曾根村大乗寺末綱島山大光院と號す、門外に石階九級を設く、此寺もと大曾根村にありしをいつの頃か當所に移せりと云、客殿七間に五間南に向ふ、本尊薬師木の坐像長七寸許行基菩薩の作なりと云、開山生外意銕和尚寛文四年十二月二十四日寂す。
鐘。客殿にかけてあり、元禄十三年の銘あれど考證とすべきことなければ略しぬ。
熊野社。客殿背後の山上にあり小祠なり。
観音堂。同じ邊にて山上にあり、又水月庵と號す、石階二十六級を設く三間半に三間の堂なり南に向ふ、本尊は馬頭観音の坐像にて長五寸許、胎中に十一面観音の立像二寸ばかりなるをこめをけり。又前立あり木の立像にて是も長五寸許。
稲荷社。堂に向て右の方にあり小祠。
天神社。稲荷よりも少しく上にあり小祠。
古碑一基。先年字別所谷より掘出せりと云、道慶禅門文明十七年乙巳五月二十九日としるす。
不動堂。是も同所にあり、此所は餘程けはしき山なり古松をよちてやうやく登れば、其上に五尺に六尺の堂あり、長八寸ばかりの石像を安す、前に木の鳥居柱間三尺許なるをたつ、勧請の年代詳ならず。 (新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による東照寺の縁起
当寺は慶安二(一六四九)年、大曽根の大乗寺第三世生外意鉄大和尚が創建された。本尊は薬師如来で伝えるところでは行基作という。十二年寅年の四月にしか扉を開かないという秘仏である。宗派は禅宗で曹洞宗に属し本山は永平寺、総持寺である。七福神の中の布袋尊をまつり正月の初まいりは賑やかである。この方は中国の前奏であったという。この寺にまつられている仏さまは他に高祖承陽大師、太祖常済大師、達磨大師、大元菩薩、十六羅漢、観世音菩薩、毘沙門天等があり境内には如意輪観世音、地蔵尊、山門には六地蔵、青面金剛が祀られている。本堂正面には薩摩藩主嶋津斉宣公の筆による瑠璃光明界の額がある。この他、古い掛軸や書物等が保管されている。(境内掲示より)
「横浜市史稿」による東照寺の縁起
東照寺
位置
東照寺は、綱島山大光院と號し、神奈川區綱島町六百十六番地に在る。境内は一段四畝十六步。官有地。區内大會根町大乘寺の末で、寺格は三等法地四十九級である。
沿革
慶安二己丑年、大曾根村大乘寺第三世生外意鐵和尙の創建した所で、往昔は大曾根村に在つたが、いつの頃か此地に移つたと云ふ。本尊は藥師如來であるので、正德の頃。第五世恭呑和尙が、山號を藥王山と改めたが、寶曆二年、第十世良惟嶺元和尙、再び山號を舊に復した。其顚末に曰ふ、
當寺五世恭呑和尙、依二本尊之藥師一、夥雖下改二綱島一爲中藥王上是實過矣。以ニ邑名一爲二山號一者、當所古蹟也。然令下當寺强如中新地上者何乎。恭呑和尙夫過矣哉。雖レ然綱島之號、當寺固有、則今又改爲二綱島一誰敢間然焉。用處在レ時。取捨不レ關耳。自レ今號レ山曰二綱島一號レ院曰二 大光一號レ寺曰ニ東照一。後之處二于此寺一者、須レ知レ之。
寶曆二年龍舍壬申歲中秋吉旦 當寺十世良惟嶺元叟謹記
爾來法燈連綿として今に及び、大正十二年九月一日の關東大震災には本堂倒壊、庫裡半潰の厄に遇つたが、現住第二十八世程木德山和尙、再建を遂げ、舊來の面目を改めた。
本尊
本尊は藥師如來坐像、長一尺。行基菩薩の作と云ふ。
堂宇
今の堂宇は、本堂 桁行六間半、梁間六間、切妻造、亞沿葺。・庫裡 桁行八間半、梁間四間半、草葺。・玄關 桁行三間、梁間一間三尺、亞沿葺。等である。(「横浜市史稿」より)
東照寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿」