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永谷天満宮|横浜市港南区上永谷の神社、日本三体永谷天満宮

永谷天満宮の概要

永谷天満宮は、横浜市港南区上永谷にある天満宮です。永谷天満宮は、延喜2年(902)太宰府へ左遷された菅原道真が自刻した像三体のうちの一体を神体としています(残りの二体は、太宰府安楽寺と河内国土師村道明寺)。菅原道真の子息敦茂が、この尊像を奉じて関東に下向し永谷郷に居住、当社の起こりとなったといいます。日本三体永谷天満宮として崇敬を受けた尊像は、菅原文時・藤原道長・上杉金吾の手を経て、相模八ヶ郷の領主上杉刑部太夫藤原乗国(法名養光院殿徳翁見公大禅定門)が明応2年(1493)天満宮の社殿を造営、天文12年(1543)には宅間伊織之介藤原綱頼が社殿を修造ししたといいます。江戸期には永谷上村の鎮守として祀られ、明治期には村社に列格、明治44年に神饌幣帛料供進社に指定されました。

永谷天満宮
永谷天満宮の概要
社号 天神社
祭神 菅原道真朝臣命
相殿 -
境内社 白糸社、沢滝社、白山社、稲荷社、神明社
住所 横浜市港南区上永谷5-1-5
祭日 例大祭9月25日
備考 -



永谷天満宮の由緒

永谷天満宮は、延喜2年(902)太宰府へ左遷された菅原道真が自刻した像三体のうちの一体を神体としています(残りの二体は、太宰府安楽寺と河内国土師村道明寺)。菅原道真の子息敦茂が、この尊像を奉じて関東に下向し永谷郷に居住、当社の起こりとなったといいます。日本三体永谷天満宮として崇敬を受けた尊像は、菅原文時・藤原道長・上杉金吾の手を経て、相模八ヶ郷の領主上杉刑部太夫藤原乗国(法名養光院殿徳翁見公大禅定門)が明応2年(1493)天満宮の社殿を造営、天文12年(1543)には宅間伊織之介藤原綱頼が社殿を修造ししたといいます。江戸期には永谷上村の鎮守として祀られ、明治期には村社に列格、明治44年に神饌幣帛料供進社に指定されました。

新編相模国風土記稿による永谷天満宮の由緒

(永谷上村)天神社
村の鎮守なり、神躰は(長一寸八分)、縁起に據るに延喜二年菅公筑紫に在て寶鏡に向ひ、躬づから模刻して令子敦茂に與へられし眞像なりとぞ、後菅原文時・藤原道長・上杉金吾等相傳せしを、明應二年二月當所の領主藤原乗國(當國八郷を領し、永谷郷に居城せしと云ふ)、其後天文十二年領主宅間伊織綱賴修造を加へ天正十年同氏規富再造せしとなり。
末社。妙義、白山、妙見、稲荷。(新編相模国風土記稿より)

「神奈川県神社名鑑」による永谷天満宮の由緒

菅公が太宰府に於て刻んだ自像三体の中、一体を奉じた菅公の子、淳茂は、永谷郷に下向し、父在すが如く朝夕之を崇拝した。後、同地の上杉刑部大夫藤原乗国は、この尊像から度々霊夢を蒙ったので、明応二年(一四九三)社殿鳥居を設けて之を安置し、永谷郷の崇廟とした(明和八年の縁起書による)。俗に日本三体永谷天満宮と称する所以である。江戸時代には深川八幡に出開帳し、又田沼意次の紹介によって、神輿は江戸城に入り、将軍家治の恭礼を受けたという。(「神奈川県神社名鑑」より)

「港南の歴史」による永谷天満宮の由緒

相模国永谷郷(現、上永谷)鎮座の天満自在天神の、祭神菅原道真は第六〇代醍醐天皇の、昌泰二年(八九九)右大臣正三位に加え右大将にも任ぜられた。道真は、昌泰四年(九〇一)正月七日には、従二位に叙せられたが、その月二五日に、筑紫の太宰府に、員外師(定員以外の役人)という役人に左遷された。(『公卿補任』)道真は、太宰府に着任した翌年、鏡に向かって、自ら自分の姿を、三体の木像に彫刻した。一体は秀才淳茂(『尊卑分脉』)に、一体は筑紫太宰府安楽寺に、残る一体は河内国土師村道明寺に安置された。
菅原道真は、延喜三年(九〇三)二月二五日太宰府に於て五九歳で薨じている。
四男淳茂は、はじめ播磨国に配流となったが、のち関東に下向して、永谷郷の下の坊(『貞昌院誌』)に居館を構えて、道真自刻の尊像を奉祀して、朝夕崇拝したのが永谷天満宮の嚆矢であるといわれている。
その後、御神躰は、菅原文時、藤原道真、上杉金吾らに伝わり、明応二年(一四九三)二月の或る夜、相模八ヶ郷の領主上杉刑部太夫藤原乗国は、永谷の居城にあって、霊夢を見て、天満宮の社殿を造営し、御神躰を安置し奉った。
天文一二年(一五四三)に、宅間伊織之介藤原綱頼が、社殿を修造し、天正一〇年(一五八二)に、宅間規富が、宮社殿を再築している。
藤原乗国は、大永元年(一五二一)七月一〇日歿、法名養光院殿徳翁見公大禅定門、墓所は戸塚区川上町五四六番地の徳翁寺で宅間家の祖になる。宅間規富は旭区三仏寺に墓所がある。
村社である永谷天満宮は、明治四四年四月三〇日に、神饌幣帛料供進社に指定された。
境内は、杉の大樹が亭々として、昼なお暗く、神厳なたたずまいであったが、昭和四八年九月、枯死した大樹を伐採し、境内を整地したので明るい境内になった。(「港南の歴史」より)

境内掲示による永谷天満宮の由緒

「新編相模国風土記稿」鎌倉郡山之内庄永谷上村の項に「村の鎮守なり、神躰は長一寸八分、縁起に據るに延喜二年菅公筑紫に在て寶鏡に向ひ、躬づから模刻して令子敦茂に與へられし眞像なりとぞ(後略)」とあります。
天満天神として信仰されている菅原道真が、延喜2年(902)筑紫(現福岡県)太宰府において鏡に写した姿を彫刻した自身像三躰のうちの一躰を子供の敦茂に授けました。敦茂はこの像を奉体し関東に下向永谷郷に居住しました。その後菅原文時・藤原道長・上杉金吾を経て、明応2年(1493)相模国八郷を領し永谷城に居城があった上杉刑部太夫藤原乗国に伝わり、夢のお告げにより社殿を造営し祭祀したと伝えられ、その後天文12年(1543)宅間伊織之介が修造、天正10年(1582)宅間規富が新たに社殿を造営したと伝えられています。
江戸時代になり、学問を奨励したので学問の神様として江戸近郊にまで知られ、境内には、入試合格祈願の絵馬などが数多く見られます。
裏山にある筆塚は、敦茂の遺髪と筆を埋めたと伝えられ、菅秀塚と呼ばれています。
なお、尊像三体のうち一体は福岡県太宰府市の安楽寺に、一体は大阪府藤井寺市の道明寺に安置されました。(横浜国際観光協会・横浜市教育委員会文化財課掲示より)


永谷天満宮所蔵の文化財

  • 永谷天満宮境内(横浜市指定史跡)

永谷天満宮境内

永谷天満宮境内は、明応二年(一四九三年)に、領主上杉乗国によって造営されたと伝えられています。裏山は、杉などからなる比較的大きな社叢林となっています。江戸時代から学問の神様として江戸近郊にまで知られており、境内には、入試合格祈願の絵馬等が数多く見られます。(横浜市教育委員会掲示より)

永谷天満宮の周辺図


参考資料
  • 新編相模国風土記稿
  • 「神奈川県神社名鑑」
  • 「港南の歴史」