青木神社|横浜市港南区大久保の神社

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青木神社|多々久之郷六箇村の総社

青木神社の概要

青木神社は、横浜市港南区大久保にある青木神社です。青木神社の創建年代等は不詳ながら、もと多々久之郷六箇村(久保、最戸、中里、弘明寺、井土谷)の総社だったといい、久保や弘明寺に、鳥居下と呼ぶ所があって、その辺りに当社の鳥居のあったのではないかともいいます。年不詳ながら大岡川洪水の際に、本社の神体が神奈川区青木町付近に漂着・青木町の地名の起原となったともいいます。天明6年(1786年)の大岡川の大洪水により、大岡川の流れが変わり社殿が上大岡側に取り残され、今でも大久保2丁目は青木神社の社地だけが川を越して残されたと言われています。明治6年に、村社に列格、青木明神社を青木神社に改称、明治41年に、村内の伊勢社、火産神社、稲荷社の三社、子の神社、十二所社らの七社を合祀したといいます。

青木神社
青木神社の概要
社号 青木神社
祭神 久々能智命
相殿 天照皇大神、火産霊命、倉稲魂命、大国主命、天七地五祖神、受持命
境内社 厳島神社
住所 横浜市港南区大久保2-1-11
祭日 例大祭9月17日
備考 -



青木神社の由緒

青木神社の創建年代等は不詳ながら、もと多々久之郷六箇村(久保、最戸、中里、弘明寺、井土谷)の総社だったといい、久保や弘明寺に、鳥居下と呼ぶ所があって、その辺りに当社の鳥居のあったのではないかともいいます。年不詳ながら大岡川洪水の際に、本社の神体が神奈川区青木町付近に漂着・青木町の地名の起原となったともいいます。天明6年(1786年)の大岡川の大洪水により、大岡川の流れが変わり社殿が上大岡側に取り残され、今でも大久保2丁目は青木神社の社地だけが川を越して残されたと言われています。明治6年に、村社に列格、青木明神社を青木神社に改称、明治41年に、村内の伊勢社、火産神社、稲荷社の三社、子の神社、十二所社らの七社を合祀したといいます。

新編武蔵風土記稿による青木神社の由緒

(久保村)
青木明神社
除地、十八歩、大岡川の對岸上上大岡村入合の地、小名青木の宮にあり、社は四尺に五尺、上屋二間に三間半、東北の方に向ふ、社前に木鳥居を設く、自性院持、當村及び最戸村の鎮守なり、勧請の年代詳ならざれど、古社にして古は多々久郷六ヶ村の惣鎮守なりしと云、其村々は當村及び最戸・別所・中里・弘明寺・引越等なり、又土俗盗人の宮とも稱す、これは昔金澤邊より盗人を追来りしが、其盗人社邊の大木の陰に身を隠しければ、追人遂に見失ひたり、それより此名ありと、例祭九月十七日、鎌倉八幡宮の禰宜来りて湯立神楽等をなす。
末社辨天社。本社に向て右の方にあり、小社。
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神明社
除地、四畝歩、小名鳥居下にあり、社は三尺に四尺、上屋六尺に九尺北向なり、是も自性院持、下二社同じ。
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十二所権現社
除地、二十五歩、小名権現堂にあり、社は三尺に四尺、上屋八尺に一丈東向。
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稲荷社
除地、十五歩、小名根岸にあり、小社、東向。(新編武蔵風土記稿より)

「神奈川県神社誌」による青木神社の由緒

勧請年月不詳であるが、もと多々久之郷六箇村(久保、最戸、中里、弘明寺、井土谷)の総社であった。洪水の時、本社の神体流れて神奈川の洲崎に着き、一時そこに祭られたのを現在の青木町の地名起原であるとも伝える。江戸時代には久保村の自性院が別当で、毎年例祭日には鎌倉八幡宮の祢宜が来て湯立神楽を行ったという。
明治六年村社に列して青木明神社を青木神社と改め、四十一年に同村の伊勢宮、火産霊社、稲荷社、子神社、十二所社等七社を合祀した。(「神奈川県神社誌」より)

「港南の歴史」による青木神社の由緒

大久保、最戸両町の鎮守である青木神社は、往昔は多々久郷六ヶ村(久保、最戸、別所、中里、弘明寺、井土ヶ谷)の総社であったというが、其の勧請の年月は詳かにできない。
久保や、弘明寺に、鳥居下と呼ぶ所があって、これは当社の鳥居のあった所であろうといわれている。
口碑によると、その昔、当社は対岸の山上に在ったが、大岡川の洪水のため、地滑りがおきて、社殿が土砂とともに、川を横ぎって飛び越え、上大岡村の地に押し流されて到達した、その土地に宮がそのまま居坐ったので、ヌスットの宮と呼ばれるようになったといわれ、また、此の宮に、東西南北に四門があって、鵺住宮(ぬずみや)とも呼んだのが、俗に訛伝してヌスット宮になったともいわれる。
また別の説として、昔、金沢辺りから盗人を追跡して来たのに盗人がこの社の大樹の陰に隠れて、遂に見失ってしまったので、比の呼び名が起きたともいわれている。
明治維新までは、久保村の自性院が別当寺であった。毎年の例大祭には、鎌倉八幡宮の禰宜が、湯立神楽を行うのが恒例であった。
明治六年に、村社に列せられて、青木明神社を青木神社に改称、明治四一年に、村内の伊勢社、火産神社、稲荷社の三社、子の神社、十二所社らの七社を合祀した。(「港南の歴史」より)

境内掲示による青木神社の由緒

大久保・最戸の鎮守である青木神社は、多々久郷六箇村(久保、最戸、別所、中里、弘明寺、井土ヶ谷)の総社であったと言われているが、その神の移しまつった年月は不明である。天明6年(1786年)の大洪水により、大岡川の流れが変り社殿が上大岡側に取り残され、そのなごりが今でも大久保2丁目は青木神社の社地だけが川を越して残されたと言われています。祭神は、木の神久々能智命(くくのちのみこと)で、明治6年(1873年)に村社に列せられて、青木明神社を青木神社と改め、その後明治41年(1908年)に同村の伊勢宮、火産神社、稲荷社、稲荷社、子ノ神社、十二所神社、稲荷社の七社を合祀して現在に至っている。(境内掲示より)


青木神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「神奈川県神社誌」
  • 「港南の歴史」