西福寺。韮崎安昌寺住職が創建
二楽山西福寺の概要
曹洞宗の西福寺は、二楽山と号します。西福寺は、韮崎安昌寺(韮崎市藤井町南下條719)住職西海松喜が、同寺を退隠し、当地に来て山梨県宝勝寺説教所を大正10年に創設、新寺建立許可が難しかったことから、関東大震災の大海嘯(津波)で倒壊し再建されずにいた真鶴西福寺の寺籍を移転させる形で昭和4年一寺と成したといいます。
山号 | 二楽山 |
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院号 | - |
寺号 | 西福寺 |
住所 | 横浜市港南区上大岡東1-38-19 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
西福寺の縁起
西福寺は、韮崎安昌寺(韮崎市藤井町南下條719)住職西海松喜が、同寺を退隠し、当地に来て山梨県宝勝寺説教所を大正10年に創設、新寺建立許可が難しかったことから、関東大震災の大海嘯(津波)で倒壊し再建されずにいた真鶴西福寺の寺籍を移転させる形で昭和4年一寺と成したといいます。
新編武蔵風土記稿による二楽山西福寺の縁起
大正・昭和時代創建のため記載なし(新編武蔵風土記稿より)
「港南の歴史」による西福寺の縁起
西福寺
山梨県北巨摩郡下条村の曹洞宗安昌寺の住職であった西海松喜は、大正一〇年一〇月一七日、上大岡の現在西福寺のある地に、山梨県宝勝寺説教所を開設した。
大正一五年一〇月、境内に、吒枳尼天堂を竣工。三州豊川稲荷から勧請した豊川吒枳尼天を祀り、横浜開運講を起して、講元に原田久吉がなった。
説教所の信者も増加して、寺院活動の機運が熟するに至ったので、昭和三年一二月信徒総代の原田久吉は、先ず、地主北見玉吉から境内地を買収した。
また一方当時は、新寺建立は法規的に困難があったので、たまたま神奈川県足柄下郡真鶴町に、大正一二年九月一日の大震災のため、大津波が発生、堂宇一切が流出して、再興に至らず廃寺同様になっていた西福寺(開山了峯印達、天正七年九月一九日卒、本尊不動)の、寺籍移転の許可を、昭和四年一〇月二〇日ゆるされたので、山号は、原田久吉の雅号二楽から、二楽山西福寺と称し、本堂建立を行ない、昭和五年六月二五日仮入仏式を挙行した。(「港南の歴史」より)
「横浜市史稿 佛寺編」による西福寺の縁起
西福寺
位置
西福寺は二樂山と號し、中區上大岡町字押越一千百八十一番地に在る。境内は三百十一坪。民有地。縣下足柄下郡足柄村高長寺の末寺で寺格は平僧地である。
沿革
明細帳に據れば、元、縣下足柄下郡眞鶴町にあつたもので、慶長二年十一月、西岸淸光庵主の開創した所である。然るに新編相模風土記の眞鶴村西福寺の條に、「東向山ト號ス。早川村海藏寺末。開山了峰印達。天正七年九月十九日卒。本尊不動。」とあつて、開山の名を異にしてゐる。西岸・了峰異名同人か、將たまた後世の混同か。大正十二年九月一日の關東大震災に、大海嘯が襲來して、堂宇一切を流失したが、元來が無檀微祿で、未だ再建に至らなかつた。是れより先き大正十年十月、山梨縣北巨摩郡下條村の安昌寺住職西海松喜が、中區上大岡町一千百八十一番地に來つて、曹洞宗山梨縣寶勝寺說敎所を建設主管してゐた所、是に至つて信徒原田久吉外多數の者と謀り、前記海嘯に流失した西福寺の寺籍を移轉すべく其筋に出願し、昭和四年十月二十三日允許を得て、寶勝寺說敎所であつたを停め、原田久吉個人の寄進に係る現敷地へ、堂宇を新建し、同五年七月二十五日、遂に移籍建立の完成を見た。斯くて原田久吉を當時中興の開基とする爲め、其雅號の二樂を採つて、更めて山號とした。
本尊
本尊は釋迦牟尼如來坐像、丈八寸である。
堂宇
主なる堂宇は、本堂・庫裡・山門である。本堂間口六間半、奥行五間八分五厘。は入母屋造、亞鉛葺。昭和五年六月、中興一世西海松喜代の建立である。庫裡間口六間、奥行五間。は亞鉛葺。大正十年、寶勝寺說敎所西海松喜が建立したものである。山門 建坪三坪。は昭和四年七月二十日、西海松喜代建立である。
境内堂
叱枳尼天堂。建坪九坪七号五勺、亞沿葺。本尊は妙見叱枳尼大菩薩。愛知縣寶飯郡豐川町妙嚴寺から分靈勸請したものである。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
西福寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「港南の歴史」
- 「横浜市史稿 佛寺編」