海蔵寺。曹洞宗小田原三山の一
海蔵寺の概要
曹洞宗寺院の海蔵寺は、宝珠山と号します。海蔵寺は、大森氏の一族で最乗寺10世開山安叟宗楞禅師が、塔の峯阿育王山に草庵を営み創建、小田原城主大森氏が嘉吉元年(1441)に伽藍を建立したといいます。小田原北条氏時代には、結城左衛門政勝が北条氏康への面会取次を当寺に依頼したとされます。豊臣秀吉の小田原攻めに際し、堀左衛門督秀政が陣中で病没、当寺に葬られたことから、堀左衛門督秀政が当寺中興開基となっています。曹洞宗小田原三山の一つに数えられ、数多くの末寺門徒寺を擁していました。
山号 | 宝珠山 |
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院号 | - |
寺号 | 海蔵寺 |
本尊 | 釈迦如来像 |
住所 | 小田原市早川766 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
海蔵寺の縁起
海蔵寺は、大森氏の一族で最乗寺10世開山安叟宗楞禅師が、塔の峯阿育王山に草庵を営み創建、小田原城主大森氏が嘉吉元年(1441)に伽藍を建立したといいます。小田原北条氏時代には、結城左衛門政勝が北条氏康への面会取次を当寺に依頼したとされます。豊臣秀吉の小田原攻めに際し、堀左衛門督秀政が陣中で病没、当寺に葬られたことから、堀左衛門督秀政が当寺中興開基となっています。曹洞宗小田原三山の一つに数えられ、数多くの末寺門徒寺を擁していました。
境内掲示による海蔵寺の縁起
この寺は宝珠山と号し、曹洞宗下総通幻派総寧寺の末で、嘉吉元年(1441)小田原城主大森氏によって建立された。
開山は大森氏の一族、安叟宗楞(あんそう そうりょう)禅師で、曹洞宗小田原三山の一つに数えられる名刹である。
本堂前の赤膚の常緑樹は「ビラン樹」である。この木は、成長すると樹皮がはがれて紅黄色となるので、異名を「バクチの木」又は「ハダカの木」と呼ばれている。四国、九州、琉球列島に分布していて、この地が生育の最北限とされている。(別にこの近くに国指定天然記念物「早川のビランジュ」がある)
寺内山の手の墓地に、天正18年(1590)秀吉の小田原攻めに参戦した豊臣方の大名、堀左衛門秀政(越前北ノ庄18万石)の墓がある。
堀秀政は、秀吉の小田原攻めに参戦して、北条氏の本拠である小田原本城攻囲中の5月、病に冒されて同月27日、早川の陣中で38歳の若さで病没し、当寺に埋葬された。
なを堀秀政は、当寺の中興開基となっている。(境内掲示より)
新編相模国風土記稿による海蔵寺の縁起
(早川村)
海蔵寺
寶珠山と號す、曹洞宗、(下總州國府臺總寧寺末、)天和二年稲葉美濃守正則、境内を除地(十四石一斗九升)となせり、本尊釋迦、開山安叟宗楞、嘉吉元年建、(文明十六年九月廿三日卒、)堀左衛門督秀政、戸澤治部大輔盛安の二人を中興開基とす(卒年法名は、墳墓の條に出す、)弘治元年下野結城左衛門政勝、伊勢参宮のついで小田原へ来り、北條氏康に謁する時、當寺の住僧を紹介となす、 (注釈を読む)
政勝滞在中、氏康當寺同遊して、殘花を賞し詩歌の會を催せり、 (注釈を読む)
【寺寶】
△開山安叟書一幅(壬寅五月初九日、安叟花押あり、弟子十哲及四老の位次を記し、正嫡天室首坐に附與するものなり、壬寅は文明十四年なるべし、)
△古文書十一通(文面省略)(新編相模国風土記稿より)
海蔵寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿