天神山貞昌院。宅間藤原規富が勅特賜徳光禅師を招請
天神山貞昌院の概要
曹洞宗寺院の貞昌院は、天神山天照寺と号します。貞昌院は、天正10年(1582)宅間藤原規富が、天神社を再建するにあたり、曹洞宗徳翁寺の勅特賜徳光禅師(徳翁四世明堂文龍大和尚)を招請して、天台宗の宿坊上之坊・下之坊の廃跡地に創建したといいます。なお天台宗下之坊には菅原淳茂が起居していたといいます。文化14年(1817)当地に移転しています。
山号 | 天神山 |
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院号 | 貞昌院 |
寺号 | 天照寺 |
住所 | 横浜市港南区上永谷5-1-3 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
天神山貞昌院の縁起
貞昌院は、天正10年(1582)宅間藤原規富が、天神社を再建するにあたり、曹洞宗徳翁寺の勅特賜徳光禅師(徳翁四世明堂文龍大和尚)を招請して、天台宗の宿坊上之坊・下之坊の廃跡地に創建したといいます。なお天台宗下之坊には菅原淳茂が起居していたといいます。文化14年(1817)当地に移転しています。
新編相模国風土記稿による天神山貞昌院の縁起
(永谷上村)
天神社別當貞昌院。天神山號す、曹洞宗後山田村徳翁寺末、舊は上之坊下之坊と號せし、台家の供僧二宇在しが共に廢亡せしを天正十年に至り其廢跡を闢き當院を起立す、開祖は文龍(天正十九年四月十六日寂す)と云ふ本尊は十一面観音(長八寸、行基作)。(新編相模国風土記稿より)
「港南の歴史」による天神山貞昌院の縁起
正応寺(天神山天照寺)
往古、天性院と称した天台宗の宿坊で、上之坊、下之坊と別れて二坊があったが、足利時代に廃絶したという。下之坊には菅秀才淳茂が起居していたともいう。
天正一〇年(一五八二)、宅間藤原規富が、天神社を再建するにあたり、後山田村(現戸塚区川上町五四六番地)曹洞宗徳翁寺の勅特賜徳光禅師(徳翁四世明堂文龍大和尚)を招請して、宿坊の廃跡地に、三月二五日当院を創設して開山した。それ以来、貞昌院が天神社の別当になった。
然し天神社と、貞昌院とは、山を狭んでいたので、不便であったため、文化一四年(一八一七)、貞昌院を現在地に移転した。もとの堂宇跡は古寺と呼ばれている。
明治一九年三月火災により、貞昌院の諸堂は悉く焼失したが、山門、鐘楼に、当寺の本尊十一面観世音菩薩と須弥檀の両側欄間彫刻の大竜、左右の牡丹獅子、天女像は、燃えさかる火焔の中を、村人の献身的努力によって無事搬出されて現在に至っている。
その後、一五年間は、仮堂宇であったが、明治三四年三月、二八世源量大和尚代のとき再建がなった。
大正一二年九月一日の、関東大震災に、本堂、山門が全壊し、庫裡は半壊の厄にあったが、檀信徒の一致協力によって翌年再興完成した。
震災前までは、屋根は茅葺であったが、再建にあたって亜鉛葺にし、昭和四五年秋に銅板葺に葺替え、翌年四月四日本堂、屋根工事は完成落慶式を行なった。
また昭和一八年、金属回収によって献納した梵鐘にかわって、新鐘を、昭和三四年一一月三日撞鐘式を行った。(「港南の歴史」より)
天神山貞昌院の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 「港南の歴史」