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永田春日神社|横浜市南区永田東の神社

永田春日神社の概要

永田春日神社は、横浜市南区永田東にある春日神社です。永田春日神社の創建年代等は不詳ながら、江戸期には永田村の鎮守社として祀られ。明治6年村社に列格、明治42年村内の無格社の熊野神社、火産社、豊受社、白鳥社、天王社、子神社、白幡社、国底立社等、神明社等14社を合祀したといいます。

永田春日神社
永田春日神社の概要
社号 春日神社
祭神 天児屋根命、早玉男命、天御中主神、天照皇大神、火産之命、稲倉魂命、栲幡千々姫命、須佐男命、国底立尊、豊秋津姫命
相殿 -
境内社 天神社
住所 横浜市南区永田東2-37-1
祭日 例大祭八月第四日曜日
備考 -



永田春日神社の由緒

永田春日神社の創建年代等は不詳ながら、江戸期には永田村の鎮守社として祀られ。明治6年村社に列格、明治42年村内の無格社の熊野神社、火産社、豊受社、白鳥社、天王社、子神社、白幡社、国底立社等、神明社等14社を合祀したといいます。

新編武蔵風土記稿による永田春日神社の由緒

(永田村)
春日社
除地、一段五畝、外に春日免一町の山あり、小名堂ヶ谷にあり、山の中腹にて石階あり、本社一間四方、上屋二間に二間半、本地十一面観音を安す、村の鎮守なり、例祭九月十一日、村内西光院開闢し、相州鎌倉八幡の社人坂井淡路社家等を連来て祭儀を行ふ、又七月七日村民こぞりて網代の的を射て奉納す、弓には竹又は牛ころしと呼べる木を用ゆと云、
末社太神宮、稲荷、辨財天、天神。合殿小社なり、本社に向て左にあり。
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山王社
除地、二畝二十歩、山王山にあり、社はなくして石碑のみ建り、碑面に阿彌陀の姿を彫るに似たり、西光院持、下同じ。
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白幡明神社
除地、六畝、字坊入にあり、爰も小高き山なり
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白幡明神社
除地、三畝十歩、小名宮ヶ谷にあり、小社東向き、九尺に二間
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熊野社
字子ヶ谷にあり、石の祠なり (新編武蔵風土記稿より)

「神奈川県神社誌」による永田春日神社の由緒

勧請の年代不詳であるが、古くより村の鎮守であり、西光院が開闢を司っていた。祭典には鎌倉八幡宮の社人坂井淡路が奉仕したと伝える。又毎年七月七日に村民が社前に集うて網代の的を射て奉納する式があり、これに使用する弓は八竹牛ころしと呼ぶ木を用いていたという。
明治六年村社に列し、同四十二年四月三日、村内の無格社熊野神社、火産社、子神社、豊受社、白鳥社、神明社、天王舎、白幡社、国底立社等、計一四社を合祀し、大正五年十月十三日神饌幣帛料供進社に指定された。(「神奈川県神社誌」より)

「南区の歴史」による永田春日神社の由緒

春日神社(永田町1258)
勧請の年代は不明、村の鎮守であって、村内の西光院が開扉をつかさどっており、祭礼のときは鎌倉八幡宮の社人、坂井淡路が社家をつれて祭儀を行なったという。毎年七月七日は村民が社前に集まって網代の的を射て奉納する行事があった。これに使用する弓は、八竹牛ころしと呼ぶ木を用いたというが、いまその行事はない。明治六年、村社に列せられ、同四二年四月三日、村内の無格社であった熊野神社、火産社、子神社、豊受社、白鳥社、神明社、天王社、白幡社、国底立社、白幡社、国底立社、豊受社、国底立社の一三柱を合祀した。大正五年一〇月一三日、神饌幣帛料供進社に指定された。(「南区の歴史」より)

境内掲示による永田春日神社の由緒

南区永田町字殿ヶ谷1298(永田東2-37-1)
ご鎮座された年代は不詳であるが、古くより村の鎮守であって、村内の西光院が開扉を司って居た。祭典のときは鎌倉八幡宮の社人坂井淡路が社家を連れて来て祭儀を行なったと言はれる。
又、毎年七月七日は村民が社前に集うて網代の的を射て奉納する式があり、これに使用する弓は八竹牛ころしと呼ぶ木を用いたという。
明治六年村社に列せられ、明治四十二年四月三日村内の無格社の熊野神社、火産社、豊受社、白鳥社、天王社、子神社、白幡社、国底立社等、神明社等各社を合祀する。大正五年十月十三日神饌幣帛料供進社に指定された。(境内掲示より)


永田春日神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「神奈川県神社誌」
  • 「南区の歴史」(南区の歴史発刊実行委員会)