永田白幡神社|鎌倉時代創建、昭和45年当地へ移転
永田白幡神社の概要
永田白幡神社は、横浜市南区永田南にある白幡神社です。永田白幡神社は、承元年間(1207-1210)に創建したと伝えられ、鎌倉八幡宮の社人坂井淡路が祭事を執行していたといいます。明治42年永田春日神社に合祀されたものの、昭和28年還座、団地造成により昭和45年当地へ移転したといいます。
社号 | 白幡神社 |
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祭神 | 栲幡千千姬命、天照皇大神、国底立命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 横浜市南区永田南2-9-26 |
祭日 | 例大祭8月第三又は第四土日曜日 |
備考 | - |
永田白幡神社の由緒
永田白幡神社は、承元年間(1207-1210)に創建したと伝えられ、鎌倉八幡宮の社人坂井淡路が祭事を執行していたといいます。明治42年永田春日神社に合祀されたものの、昭和28年還座、団地造成により昭和45年当地へ移転したといいます。
新編武蔵風土記稿による永田白幡神社の由緒
(永田村)白幡明神社
除地、三畝十歩、小名宮ヶ谷にあり、小社東向き、九尺に二間(新編武蔵風土記稿より)
「神奈川県神社誌」による永田白幡神社の由緒
承元年間(一二〇七-一二一〇)の創立と伝える。古より永田村長者ヶ谷の鎮守で、往昔祭典の時は鎌倉八幡宮の社人坂井淡路が祭儀を執行していたと云う。明治四十二年四月三日村内春日社に合祀されたが、昭和二十八年九月十日現在地の山上に再び分祀奉斎した。同四十五年山林開発団地造成工事に伴い、更に現境内地に移り、同時に新しく本殿・拝殿の造営を竣工した。(「神奈川県神社誌」より)
「南区の歴史」による永田白幡神社の由緒
伝承によると承元年間(一二〇七~一二一〇)鎌倉八幡宮の社人坂井淡路が祭祀をつかさどったといわれている。『新編武蔵風土記稿』に「白幡明神社除地六畝、字坊入にあり、爰も小高き山なり」とあって、丘陵の突端に鎮座されていたが、明治四二年四月三日村内無格社は北永田の村社春日社に合祀されたので、それ以来社地は雑草、樹木のおい茂るにまかせてあった。
ところが昭和四五年一一月から、この丘陵一帯を切り開いて宅地造成が行なわれ、丘陵は平たん地となった。その頃南太田の鎮守として白幡神社の再建の議が氏子間に起り、春日社から分離して昭和四六年八月宗教法人の認可を得て、再びこの地に祭祀されることになった。(「南区の歴史」より)
境内掲示による永田白幡神社の由緒
承元年間(1,207年-1,210年)創立と伝える。古より永田村長者ヶ谷の鎮守で、往昔祭典の時は鎌倉八幡宮の社人坂井淡路が祭儀を執行していたと云う。
当時の神道家宝積院第十六代宝積唯七社掌の時(明治四十二年四月三日)法令に依り村内春日社に合祀されたが、昭和二十八年九月十日現在地の山上に再び分祀奉斎した。
昭和四十三年山林開発団地造成工事に伴い、更に現境内地に移り同時に新しく本殿・拝殿の造営を竣工した。
境内地に奉斎されている阿弥陀如来は、山林開発造成工事中、神社の境内の地中より掘り出された石佛で西方浄土に住み一切の人々を救うという誓いを立てている佛である。(境内掲示より)
永田白幡神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「神奈川県神社誌」
- 「南区の歴史」(南区の歴史発刊実行委員会)