東照山普門院。横浜市南区別所
東照山普門院の概要
高野山真言宗寺院の普門院は、東照山と号します。東照山普門院の創建年代等は不詳ながら、祐鎭(天文20年1551年寂)が開山、慧海(宝暦7年1757年寂)が中興したといいます。
山号 | 東照山 |
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院号 | 普門院 |
寺号 | - |
住所 | 横浜市南区別所4-7-1 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
東照山普門院の縁起
東照山普門院の創建年代等は不詳ながら、祐鎭(天文20年1551年寂)が開山、慧海(宝暦7年1757年寂)が中興したといいます。
新編武蔵風土記稿による東照山普門院の縁起
(別所村)普門院
除地四段二十六歩、小名谷にあり、古義眞言宗、石川寶生寺末、東照山と號す、本堂五間に六間東向、本尊阿彌陀を安す、坐像長二尺許、傍に薬師を置、立像長八寸許、古物と見ゆ、開山祐鎮天文二十年正月二日寂す、中興慧海寶暦七年寂す。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿 佛寺編」による東照山普門院の縁起
普門院
位置
普門院は東照山と號し、中區別所町八百九十九番地に在る。境内は、三百三十一坪。民有地。高野山金剛峯寺の直末で、寺格は二十一等格院、弘法大師八十八箇所靈場の第五十二番である。
沿革
開創の年代は詳かではないが、開山を祐鎭 天文二十年正月二日寂。中興を慧海 寶曆七年寂。と云ふ。古來、當院は少祿少檀で、久しく無住で在つた。寛永年中に、長嚴僧都が住職し、以後七世までは法統を嗣いだが、寛政年間に、再び無住となり、爾來、他寺の兼務する所となつて居た。隋つて沿革等を全く不明である。大正十二年九月一日の震災に、本堂・庫裡とも倒壊の厄に遭つた。直後、現住小板橋興遍が、庫裡を再建し、今、本堂に兼用して居る。
本尊
本尊は不動明王の立像、長二尺許。
附記。脇本尊十一面觀世音、竝に千手観世音は、市内札所の本尊と仰がれて居たが、震火災の爲めに燒失し、叉、三體の地藏菩薩も、共に其厄に罹った。
堂宇
本尊は不動明王、廚子入立像、長一尺三寸、作者不詳である。
住事は、阿彌陀如來坐像、長二尺許なるものを本尊としたが、いつの頃からか、今の本尊に改めたと云ふ。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
「南区の歴史」による東照山普門院の縁起
東照山普門院
天文五年(一五三六)四月八日阿闍梨祐鎮が開創したといわれる。祐鎮は天文二〇年(一五五一)一月五日寂す。その後一三四年間は不明。本尊は『新編武蔵風土記稿』には、阿弥陀如来とあるが『普門院由来』には薬師如来と記してある。
大正一三年四月八日古材を利用して本堂庫裡兼用の仮堂を建設、茅葺木造平屋二二坪。この頃檀家二八戸。(「南区の歴史」より)
東照山普門院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「南区の歴史」(南区の歴史発刊実行委員会)
- 「横浜市史稿 佛寺編」