常清寺。横浜市南区清水ヶ丘にある日蓮宗寺院

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栄玉山常清寺。吉田勘兵衛良信翁が開基

常清寺の概要

日蓮宗寺院の常清寺は、栄玉山と号します。常清寺は、身延山久遠寺第31世一円院日脱上人を開山として、吉田勘兵衛良信翁(法名日凉)が開基となり、新田守護のため吉田新田(長者町付近)に延宝4年(1676年)創建したといいます。

常清寺
常清寺の概要
山号 栄玉山
院号 -
寺号 常清寺
住所 横浜市南区清水ヶ丘231
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 常清寺
備考 -



常清寺の縁起

常清寺は、身延山久遠寺第31世一円院日脱上人を開山として、吉田勘兵衛良信翁(法名日凉)が開基となり、新田守護のため吉田新田(長者町付近)に延宝4年(1676年)創建したといいます。吉田勘兵衛良信は、吉田新田を開発、運千山真養寺・日枝神社お三の宮をも創建したといいます。

新編武蔵風土記稿による常清寺の縁起

(吉田新田)常清寺
除地、三段五畝十歩。東北の間にあり。法華宗、甲州身延山久遠寺末、栄玉山と号す。開山は本山三十一世日脱なり。元禄十一年九月二十二日寂す。開基は吉田勘兵にて、貞享三年七月二十六日寂す。法名日凉と云。本尊三寶祖師を置。(新編武蔵風土記稿より)

「横浜市史稿 佛寺編」による常清寺の縁起

常淸寺
位置及寺格
常淸寺は、榮玉山と號し、長者町八丁目八十三番地にある。境内は千二百七十一坪。日蓮宗總本山甲斐國身延山久遠寺の末寺で、中本寺緋金襴二等寺である。
沿革
延寶四年二月、吉田新田の開發者吉田勘兵衞良信が、身延山第三十一世日脫上人を勸請して開山とし、鬼門鎭護の爲めに建立した所である。延享五年三月三日再建したが、明治三十二年八月十二日、市中の大火に類燒し、僅に淸正公堂及び鐘樓を殘すのみであつた。同三十八年六月、桁行十間、梁間十一間の本堂、六間四方の庫裡、四間四方の玄關、及び境内佛堂等の再建を遂げ、輪奐の美を成したが、大正十二年九月一日の大震火災に遇ひ、伽藍を擧げて灰燼となした。今の堂宇は直後に造立した假堂である。
本尊
本尊は釈迦・多寶・十界曼荼羅及び日蓮上人である。(「横浜市史稿 佛寺編」より)

「南区の歴史」による常清寺の縁起

栄玉山常清寺
延宝四年(一六七六)二月、吉田新田埋立竣工の後、開発者吉田勘兵衛は、身延山三一世日脱上人を勧請して、新田守護、諸霊供養のため建立したのが当寺であって、はじめ長者町八丁目八三番地にあたる地に創建し、延享五年三月三日再建、明治三二年八月二一日雲井町一丁目(弥生町一丁日)銭湯勝盛館付近から出火し南西の強風に七時間も延焼、全焼三、一五八戸、半焼四九戸、焼死者二名、負傷者一〇名、損害額五〇〇万円以上という「雲井町の火事」に当寺も類焼したが、わずかに清正公堂と鐘楼がのこった。明治三八年六月、間口一〇間、奥行二間の本堂、六間四方の庫裡、四間四方の玄関。それに境内仏堂が、一、二七一坪の境内に、伽藍の美を完成した。しかし、この堂宇も大正一二年の関東大震災に灰燼となった。震災直後、仮本堂間口五間、奥行六間半亜鉛葺を建立した。本堂は昭和一〇年一〇月に間口七間、奥行入間木造瓦葦で改築した。太平洋戦争の折には、本堂は暁部隊の宿舎となった。昭和二〇年五月二九日の横浜大空襲で三度伽藍は全焼した。昭和二七年六月清水ヶ丘二三一番地に仮本堂を建立して移転。昭和四四年六月七日、同地に鉄筋コンクリート地下一階、地上一階間口五間、奥行六間の本堂を建立した。地上の本堂は廻廊付である。建坪六〇坪。この地の境内一四六坪。(「南区の歴史」より)


常清寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「横浜市史稿 佛寺編」
  • 「南区の歴史」(南区の歴史発刊実行委員会)
  • 公式ページ:日蓮宗玉栄山常清寺