引越山定光寺。東国八十八ヵ所霊場
引越山定光寺の概要
高野山真言宗寺院の定光寺は、引越山福壽院と号します。定光寺の創建年代等は不詳ながら覺清法印が開山したといい、22世快山法印は元禄8年(1695)寂だといいます。東国八十八ヵ所霊場59番です。
山号 | 引越山 |
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院号 | 福壽院 |
寺号 | 定光寺 |
住所 | 横浜市南区六ツ川1-270 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | マヤ幼稚園 |
引越山定光寺の縁起
定光寺の創建年代等は不詳ながら覺清法印が開山したといい、22世快山法印は元禄8年(1695)寂だといいます。
新編武蔵風土記稿による引越山定光寺の縁起
(引越村)定光寺
除地、五段六畝、村の中程より、少く巽の方にあり、古義眞言宗、石川寶生寺末、引越山と號す、本堂八間に六間西南に向ふ、本尊阿彌陀惠心の作、立像長二尺許、開山覺法寂年詳ならず。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿 佛寺編」による引越山定光寺の縁起
定光寺
位置
定光寺は引越山福壽院と號し、中區大岡川町二百七十番地にある。境内は一段九畝十五歩。民有地。區内元町の增德院末、寺格は十五等である。
沿革
創立の年代不詳。開山は覺淸法印と云ふ。元祿八年八月二十七日入寂した快山法印は、二十二世であるといふから、餘程古い寺であると思はれるが、徴すべき舊記等も存しないので、沿革等も考え難い。今の本堂は第三十二世寛秀の代、明治十五年に荒廢した堂宇を改築修復を加へたものである。
本尊
本尊は阿彌陀如來の木彫立像、長一尺四寸八分、惠心作と傳へられてゐる。
堂宇
今の堂宇は、本堂 桁行四間、梁間五間、四注造、草葺。・庫裡 桁行八間、梁間六間半、草葺。第三十一世深諦代造立。・物置 桁行四間、梁間二間、草葺。等である。表門は大正十二年九月一日の震災に倒潰して、未だ再建に至らぬ。
檀家
檀家は八十戸。
歷代
開山覺淸法印。第二世一如法印。第三世淸山法印。第四世長祐法印。第五世日山法印。第六世安入法印。第七世日譽法印。第八世譽辨法印。第九世龍長法印。第十世快樹法印。第十一世慶秀法印。第十二世尊譽法印。第十三世底側法印。第十四世慶祐法印。第十五世繼尊法印。第十六世長慶法印。第十七世長譽法印。第十八世秀山法印。第十九世長辨法印。第二十世秀辨法印。第二十一世秀賀法印。第二十二世快山法印。元祿八年八月二十七日示寂。第二十三世潛龍法印。享保十六年二月二十七日寂。第二十四世雲龍法印。寛保元年十月十一日寂。第二十五世圓海法印。第二十六世秀舜法印。寛政二年九月二十六日寂。第二十七世秀光法印。天保三年十二月二十八日寂。第二十八世觀周法印。第二十九世榮眞法印。文化十一年十二月十六日寂。第三十世智諦法印。安政三年十二月二十九日寂。第三十一世深諦法印。第三十二世寛秀法印。明治三十七年二月二日寂。第三十三世寛秀法印。現住。俳諧宗匠、號呼月。
雜載
當寺境内墓地に、儒者根本武夷山人の墓碑がある。元は弘明寺裏山共有墓地内に在つたが、湘南電鐵の敷地となつた為に、昭和三年十二月、當境内裏山へ移轉したのである。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
引越山定光寺所蔵の文化財
- 根本武夷の墓(横浜市地域史跡)
根本武夷の墓
根本武夷は江戸時代、横浜が誇る文化人で、字は伯修、号を武夷といい、通称、八右衛門と呼ばれました。元禄二年(一六九八)、弘明寺村の名主の家に生まれ、若年江戸に出て、儒学者荻生徂徠の門に学び、下野(栃木県)の足利学校に留学、二十年がかりで論語の注釈書「論語義疏」を出版し、本書は中国に逆輸出されたほどです。明和元年(一七六四)に六六才で没しています。
墓は当初、弘明寺裏山の共葬墓地にありましたが、昭和三年、湘南電鉄(現、京浜急行)の敷設に伴い、定光寺に移りました。墓地入口には移転記念碑が建てられています。(横浜市教育委員会掲示より)
引越山定光寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿 佛寺編」