妙法山弘誓院。東国八十八ヵ所霊場、横浜磯子七福神の福禄寿
弘誓院の概要
高野山真言宗寺院の弘誓院は、妙法山観音寺と号します。妙法山弘誓院は、石川德右衞門帶刀源家重が開基、順淸法印が開山となり、天文5年(1536)に創建したといいます。東国八十八ヵ所霊場54番、横浜觀音三十三観世音霊場30番、、横浜弘法大師二十一箇所10番、横浜磯子七福神の福禄寿です。
山号 | 妙法山 |
---|---|
院号 | 弘誓院 |
寺号 | 観音寺 |
住所 | 横浜市南区睦町2-221 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
弘誓院の縁起
妙法山弘誓院は、石川德右衞門帶刀源家重が開基、順淸法印が開山となり、天文5年(1536)に創建したといいます。
新編武蔵風土記稿による妙法山弘誓院の縁起
(中村)弘弘誓院
除地、二畝十八歩、村の西にあり、同宗同末(古義眞言宗、石川寶生寺の末)にて妙法山観音寺と號す、本尊不動を安せり。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿 佛寺編」による弘誓院の縁起
弘誓院
位置
弘誓院は、妙法山觀音寺と號し、中區中村町字西ノ谷四百七十番地にある。境内は三百十九坪。大本山、高野山金剛峯寺直末の一等格院で、市内觀音三十三所の三十番、同弘法大師二十一所の第十番の靈場である。
沿革
開基は石川德右衞門帶刀源家重、開山は順淸法印、天文五年の草創である。寛永十年二月十五日議定の古義眞言宗本末帳に、「石川寶生寺、御除。」と載せてある。元祿十六年十一月二十三日、大地震に罹つて、堂宇倒潰し、延寶元年に、本堂(七間半に四間半の草葺。)・庫裡(七間半に四間半の草葺。)・長屋門(七間に二間の草葺。)の再建を遂げ、仁和寺總法務宮から山號・寺號を賜はつた。當時は寶生寺門徒の中、上通の格式を備へ、本寺の法務を執行し、末寺四十六箇寺の觸頭であつた。明治七年に市内の增德院に轉屬。大正十二年九月一日の大震災に、本堂及び庫裡を倒潰したが、大正十五年三月十五日、早くも本堂の再建を遂げた。建築は工學博士伊東忠太の設計に成った印度式で、市中の一偉觀と仰がれてゐる。大正十五年六月二十九日、大本山金剛峯寺の直末と爲つた。
本尊
本尊は正觀世音菩薩の木彫立像、高二尺七寸。
堂宇
現今の堂宇は、本堂(桁行七間、梁間印度式屋蓋銅板葺。)・附屬位牌堂(桁行五間、梁間三間。)及び長屋門(桁行七間、梁間二間草葺。)等である
境外佛堂
境外堂、釋迦堂。天文山と號し、中村町字山田九百六十七番地及び九百六十八番地にある。大正十二年九月一日の大震火災に燒失、次いで再建を遂げたのが、今の堂宇で三間半に二間半の平家造、亞鉛葺である。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
弘誓院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿 佛寺編」