藤澤山浄光寺。總本山淸淨光寺第五十九世他阿尊敎上人が開山
藤澤山浄光寺の概要
時宗寺院の浄光寺は、藤澤山無量院と号します。藤澤山浄光寺は、總本山淸淨光寺第五十九世他阿尊敎上人開山となり、明治5年に布教を開始、明治15年に藤澤山淨光寺と公称するようになったといいます。
山号 | 藤澤山 |
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院号 | 無量院 |
寺号 | 浄光寺 |
住所 | 横浜市南区中村町1-37-2 |
宗派 | 時宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
浄光寺の縁起
藤澤山浄光寺は、總本山淸淨光寺第五十九世他阿尊敎上人開山となり、明治5年に布教を開始、明治15年に藤澤山淨光寺と公称するようになったといいます。
新編武蔵風土記稿による藤澤山浄光寺の縁起
江戸期には存在していなかったので記載なし(新編武蔵風土記稿より)
「南区の歴史」による浄光寺の縁起
藤沢山無量院浄光寺
開山は総本山清浄光寺五九世他阿尊教上人で、明治五年頃、尊教上人当地に時宗布教のため来浜したのが濫觴であって、翌六年に中村の田辺新六・同郷左衛門の所有地を借用して、本堂・庫裏を建立して説教所を開設、明治一一年森證善が担任教師として来浜し、一三年に小教院に改めた。明治一五年五月一七日官庁の允許を得て、本山の直末寺院として藤沢山浄光寺を公称するに至った。俗にこの寺院を「横浜の遊行寺さん」と人々は呼び、門前の坂道を誰いうとなく「遊行寺坂」「遊行坂」と名付けた。
借地であった寺域の約過半を明治二六年田辺両家から寄進され、他は返却したが、これによって寺の基礎は益々強固となって、関東の大震災にも堂宇の倒壊及び火災の難はまぬがれたが、太平洋戦争の折、昭和二〇年五月二九日の大空襲には遂に寺院は烏有に帰して、全ての資料を失い、潰滅的な打撃を受けたが、幸檀信徒の献身的協力を得て昭和三二年五月二六日現堂宇を復興落慶し、また、客殿、庫裏も新築し、本堂正面にある二本の「ツゲ」の大木は丸杉に刈込まれて美観を呈し、空襲からまぬかれた椎の巨木は目廻り二・五メートルもあって、枝葉は繁茂している。(「南区の歴史」より)
「横浜市史稿 佛寺編」による浄光寺の縁起
淨光寺
位置
淨光寺は藤澤無量院と號し、中區中村町千三百九十三番地にある。境内は五百八十四坪。民有地。總本山淨光寺の末寺である。
沿革
開山は總本山淸淨光寺第五十九世他阿尊敎上人、第一世は森證善である。寺基の開けたのは明治五年で、尊敎上人の來化に濫觴する。翌六年、本市中村町田邊新六・同鄕左衞門の所有地、南北四十五間、東西三十間、面積千三百四十坪を借り入れて、境内に充て、本堂及び庫裡を建立して、敎會所を開き、越えて明治十一年、森證善が擔任敎師として來所し、十三年に、小敎院に改めた。斯くて十五年五月十七日、其筋の允許を得て、本山の直末寺院と爲し、藤澤山淨光寺と公稱するに至つた。四十年、桑畑靜善、法統を嗣いで第二世と爲り、益〻守成の實績を擧げ、明治二十六年、田邊兩家から境内の内五百四十坪の施入を得、殘餘はこれを返還し、固く寺基を定めた。大正十二年九月一日の大震災に遇ひ、多大の被害はあつたが、幸に倒潰又は火災の難を免かれた。
本尊
本尊は阿彌陀如來坐像。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
浄光寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「南区の歴史」(南区の歴史発刊実行委員会)
- 「横浜市史稿 佛寺編」