芝生浅間神社|横浜市西区浅間町の神社

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芝生浅間神社|平安時代末期の創建

芝生浅間神社の概要

芝生浅間神社は、横浜市西区浅間町にある浅間神社です。芝生浅間神社の創建年代は不詳ながら、承暦4年(1080)に富士浅間神社の分霊を奉祀したとも、源頼朝が文治元年(1186)、橘樹郡神奈川在芝生村(現今の浅間町)に富士山の形状の山地あるをトして社殿を創築し、富士浅間神社の御分霊を奉祀して創祀したともいいます。明治41年浅間町字神明の山上にあった神明社、浅間町字鹿島にあった鹿島社を合祀したといいます。

芝生浅間神社
芝生浅間神社の概要
社号 浅間神社
祭神 木花咲耶姫命、天照皇大神、武甕槌命
相殿 -
境内社 -
住所 横浜市西区浅間町1-19-10
祭日 例大祭6月1日
備考 浅間幼稚園併設



芝生浅間神社の由緒

芝生浅間神社の創建年代は不詳ながら、承暦4年(1080)に富士浅間神社の分霊を奉祀したとも、源頼朝が文治元年(1186)、橘樹郡神奈川在芝生村(現今の浅間町)に富士山の形状の山地あるをトして社殿を創築し、富士浅間神社の御分霊を奉祀して創祀したともいいます。明治41年浅間町字神明の山上にあった神明社、浅間町字鹿島にあった鹿島社を合祀したといいます。

「横浜西区史」による芝生浅間神社の由緒

浅間神社
浅間町一丁目一九-一〇。宮司吉田正宏。祭神木花咲耶姫命。承暦四年(一〇八〇)富士浅間神社の分霊を奉祀したものと伝える。旧芝生村鎮守。江戸時代別当香象院。相殿合祀、神明社(祭神天照皇大神。旧位置字神明)、鹿島社(祭神武賓槌命。旧位置字鹿島)。境内社は小嶽社、稲荷社、招魂社。例祭日六月一日。本殿二階建浅間造。境内千四百坪。神殿の在る丘は袖すり山と呼ばれ、昔時は山下がすぐ波打ち際であったという。この丘の斜面には十基の横穴墓があり、そのうち開口したものが「富士の人穴」と称され、このなかに安置されていた大日如来石像が現在社殿横に置かれている。当社は近隣の富士講の中心地であり、また六十年に一度庚申祭りが盛大に挙行される。(「横浜西区史」より)

新編武蔵風土記稿による芝生浅間神社の由緒

(芝生村)富士浅間社
江戸の方より海道の入口右にあり。前に石の鳥居を建つ。東南に向ふ。小山の上に社あり。二間に二間半、是は西南に向ふ。神輿は郡内帷子町香象院に納めたれば其寺の持也。按に元禄年中になりし浅間の宮并人穴の縁起と云ものあり。妄誕の説にして取べき事なし。思ふに此社の傍に昔より穴あるにより、世に名高き富士の人穴のことを思ひ合せてかかる説をねせしにや。又此古穴を人穴など云により、富士浅間の社を祝ひそめしも知るべからず。いづれかかる穴は此邊に所々ありて、何れも土人附会の説をなせり。是も其一穴なるべし。此ほとりは昔の武蔵野の末にて人家もまれなりしころ、此所へ来り住んと思ひしもの小山の麓などうがちて穴居せしあとにもやあるべきか、昔武蔵野には白浪多かりしなど古き物にも見ゆるは、かくよからぬふるまひをなす野ぶしなど云もの、かかる所をすみかとなせしにや。又別に土民らが財宝など入るる為の用に備へし穴なるも知るべからず。
末社妙見社。
社に向て左にあり、小祠。
人穴二所。一は本社鳥居の内石階少許を上り、左の方山の半伏にあり。穴の口五尺余其内低き所二坪許深さ一間余、一は石階の腹右の方にあり。
神明宮
小名三つ家の右の方山上にあり、社は九尺に一丈東北に向ふ、是も香象院持 (新編武蔵風土記稿より)

神奈川県神社誌による芝生浅間神社の由緒

創建年月不詳であるが、源頼朝文治元年(一一八六)平家討滅後、政道の恢弘に先ず社寺を復興し、且は戦勝報賽のため遠近の社寺修築、神馬神田の寄進に及んだ、然る所武蔵国橘樹郡神奈川在芝生村(現今の浅間町)に富士山の形状の山地あるをトし社殿を創築し、富士浅間神社の御分霊を奉祀したのを創祀とする。爾来、八百年、神威赫灼として遠近に輝いたが、昭和三年御大典記念事業として御造営の社殿は惜しくも昭和二十年五月の戦災のため烏有に帰した。戦後直ちに社殿の復興再建の議起り、昭和三十年浅間神社復興建築に着手、氏子各位の尽誠献金によって官幣大社浅間神社(富士宮市)社殿の形状を縮小設計し、先ず境内拡張整備を成し、従来敷地三倍以上の造成をなし、同三十三年社殿工事起工式、同三十四年竣工、旧社殿にまさる丹塗楼閣造りの御社殿の落成を見たのである。相殿の神明宮は天照皇大神を祀り浅間町字神明の山上に、鹿島神社は武甕槌命を祀り浅間町字鹿島に鎮座していたが明治四十一年八月十五日に合祀せられたものである。(神奈川県神社誌より)


芝生浅間神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿