本牧神社|横浜市中区本牧和田の神社

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本牧神社|旧称十二天社、境内社若宮八幡宮

本牧神社の概要

本牧神社は、横浜市中区本牧和田にある本牧神社です。本牧神社の創建年代等は不詳ながら、境内社若宮八幡宮は、鎌倉幕府成立以前より本牧に祀られていたといい、源頼朝や惟康親王など崇敬を受けてきたといいます。海岸に流れ着いた大日孁女貴命像を、弘長三年(1263)に奉斎、本郷村の総鎮守としたといいます。徳川家康が関東入国後の天正19年(1591)には社領12石の御朱印状を拝領、明治維新に際して本牧神社と改称、大正5年村社に指定されました。

本牧神社
本牧神社の概要
社号 本牧神社
祭神 大日孁貴命、素戔嗚尊、大山祇神、木花咲耶姫命
相殿 -
境内社 箱崎八幡宮、天満宮、水天宮、若宮八幡宮、阿夫利神社
住所 横浜市中区本牧和田19
祭日 例大祭8月上旬
備考 -



本牧神社の由緒

本牧神社の創建年代等は不詳ながら、境内社若宮八幡宮は、鎌倉幕府成立以前より本牧に祀られていたといい、源頼朝や惟康親王など崇敬を受けてきたといいます。海岸に流れ着いた大日孁女貴命像を、弘長三年(1263)に奉斎、本郷村の総鎮守としたといいます。徳川家康が関東入国後の天正19年(1591)には社領12石の御朱印状を拝領、明治維新に際して本牧神社と改称、大正5年村社に指定されました。

新編武蔵風土記稿による本牧神社の由緒

(本郷村)十二天社
丑の方にて、村の惣鎮守なり、相傳ふ神體は、永禄年中今神主豊後が先祖、松本次郎左衛門と云もの、當所海面にて漁網中に得たり、依て爰に社を建て祀る、【小田原役帳】に十八天領二十貫文、奈古谷に伏とあり、豊後が話に、昔小名間門に、第六天鎮座す、故に今も其跡を第六天山とも、後彼第六天を移し、合祀て十八天と云ひしにやといへり、御朱印社領十二石は、天正十九年十一月當所に於て賜へり、本社三間四方、幣殿二間四方、拝殿二間に四間、前に鳥居二基たてり。
末社
天神社。本社に向て右にあり、下並に同。
稲荷社。
天照大神熊野龍王権現合社。
若宮八幡社。この社は、いまの本社より舊く鎮座すといへり、北方村の鎮守なり、元禄五年再建の棟札存す。
神主松本豊後。吉田家の配下なり、前に次郎左衛門が子孫と云是なり、今別當多門院所蔵古記の内、十二天領の内五石次郎左衛門抱の分、多門院に譲り渡すと云ことを載せ、末に文禄三年馬二月十六日多門院殿江神主次郎左衛門と記し、花押を載す。
別當多門院。村の中程、本社よりは八丁を隔つ、古義真言宗、石川寶生寺の末、醫王山成願寺と號す、開山観譽、天正十三年十一月二十四日寂、中興清存寛永九年四月十九日寂す、客殿に不動を安し、本尊薬師は別堂に安置す、薬師は仏物なれど何人の作なると傳へず、十二天領の御朱印は當院に蔵せり。
影堂。當院の代々を安す。 (新編武蔵風土記稿より)

神奈川県神社誌による本牧神社の由緒

現在駐留軍用地として接収されている本牧十二天の地に古く若宮八幡宮の一社あり、社伝によれば、源頼朝建久三年(一一九二)鎌倉に幕府を開くにあたり鬼門鎮護のため、朱塗厨子を賜い、鎌倉将軍惟康親王より社領を、また中頃管領方よりも同様の寄進があったという。弘長三年の元旦並みの中に光を発し、大日孁女貴命の像が社地の海岸に漂い給うたのを、里人別に一宇を建て、本村の総鎮守として、併せ奉斎した。のち本地垂迹説広く行われ、仏説十二神を神前に祀って、十二天社と称し、本体を深く秘した、天正十一年徳川家康関東入国に際し寄進状により先規の通り十二石の朱印領を賜った。明治の神仏分離の際、十二天社の社号を廃し、本牧神社と改称し、大正五年十二月二十六日指定村社となる。昭和廿年五月二十九日横浜大空襲による戦災により、社殿一切が烏有に帰し、現在も氏子区域四分の一と共に接収中である。(神奈川県神社誌より)


本牧神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿