間門山東福院。東国八十八ヵ所霊場、横浜觀音三十三観世音霊場
間門山東福院の概要
高野山真言宗寺院の東福院は、間門山と号します。東福院は、清任阿闍梨が字大島谷にあった小堂を寛永年間(1624-1645)に現地に移して、一寺としたといいます。東国八十八ヵ所霊場46番、横浜觀音三十三観世音霊場20番、横浜弘法大師二十一箇所17番です。
山号 | 間門山 |
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院号 | 東福院 |
寺号 | - |
住所 | 横浜市中区本牧荒井町64 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
間門山東福院の縁起
東福院は、清任阿闍梨が字大島谷にあった小堂を寛永年間(1624-1645)に現地に移して、一寺としたといいます。
新編武蔵風土記稿による間門山東福院の縁起
(本郷村)東福院
年貢地、西よりなり、間門山と號す、本尊大日。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿 佛寺編」による間門山東福院の縁起
東福院
位置及寺格
東福院は、間門山と號し、中區本牧町字荒井三千六百十九番地にある。境内は三百五十八坪。民有地。大本山、高野山金剛峯寺の直末、十二等格院に列し、市内觀音三十三所の第二十番の札所、同弘法大師二十一箇所の第十七番の靈場である。
沿革
元、大島谷にあつた一小堂を、寛永年中、淸任阿闍梨が現地に移して、興隆した所であると云ふ。其年紀については、四年といひ、四年四月七日といひ、或は九年といひ、明瞭でないが、過去帳に、淸任は寛永四年七月十日入寂と載せてある。寛永十年二月十五日議定の關東古義眞言宗本末帳に石川寶生寺末東福院、境内除地と見える。明治維新の際までは、淺間社・王子權現社の別當をしてゐた。明治七年、元町增德院に轉屬した。大正十二年九月一日、(大震災に。)甚大なる被害を受けたが、直後に堂宇の復舊を遂げた。大正十五年六月二十九日、高野山金剛峯寺の直末となった。
本尊
本尊は金剛界大日如來の坐像。脇本尊に、如意輪觀音、竝に弘法大師が立ててある。
堂宇
現在の堂宇は、本堂(桁行八間二尺、梁間十間、四注造、瓦葺。)・庫裡(桁行四間半、梁間六間半。)・玄關(桁行二間、梁間一間半。である。・昭和五年十一月現住の再建。表門一間半、一間。)は大震災に倒潰して舊觀を失うた。
境内佛堂
陀枳尼天堂は、神佛分離の際、元當寺の持であった淺間社境内の稻荷社を移した所である。堂宇。桁行一間半、梁間一間半、入母屋造、草葺。
境外佛堂
阿彌陀堂は、本牧町字、池田二千百五十三番地にある。境内八十一坪。官有地。本尊は阿彌陀如來の立像である。堂宇桁行三間、梁間二間半。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
間門山東福院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿 佛寺編」
参考資料
- 新編武蔵風土記稿