太田山蓮光寺。太田源左衞門が発願
太田山蓮光寺の概要
真宗大谷派寺院の蓮光寺は、太田山と号します。蓮光寺は、太田源左衞門が発願、村田貞助の協力により、浅草蓮光寺の本多興瑛を開基に招いて、嘉永元年(1848)蓮光庵と称して中区山下町に創建したといいます。明治4年興學法師を第一世として蓮光寺と称し、明治6年当地へ移転したといいます。
山号 | 太田山 |
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院号 | - |
寺号 | 蓮光寺 |
住所 | 横浜市中区石川町3-128 |
宗派 | 真宗大谷派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
太田山蓮光寺の縁起
蓮光寺は、太田源左衞門が発願、村田貞助の協力により、浅草蓮光寺の本多興瑛を開基に招いて、嘉永元年(1848)蓮光庵と称して中区山下町に創建したといいます。明治4年興學法師を第一世として蓮光寺と称し、明治6年当地へ移転したといいます。
新編武蔵風土記稿による太田山蓮光寺の縁起
記載なし。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿 佛寺編」による太田山蓮光寺の縁起
蓮光寺
位置及寺格
蓮光寺は、太田山と號し、中區中村町千五百三十番地にある。境内は九百七十坪。東本願寺末で、寺格は一等別助音地である。
沿革
嘉永元年、太田源左衞門の發願、村田貞助の協力に依り、本多興瑛開基となつて、太田町八丁目百七十五番地(今の中區山下町。)に一草庵を創立し、蓮光庵と號した。時に其筋の内命をうけ、常盤御所から拜領の親鸞聖人眞筆の梵字名號石を境内の一隅に安置した。これが當寺の濫觴である。明治元年、外國人居留地が設定せられ、當庵境内は其區域に編入せられたので、綠町(地理編參照。)に移轉した。明治四年、寺號を受けて、蓮光寺と稱し、興學法師を以て第一世とした。明治六年三月二十二日、關内の大火に類燒したので、新に寺域を現在の地に拓いて、移轉再建を遂げた。明治三十年、更に規模を擴張して、大伽藍の建設に著手し、三十四年三月十八日、竣功して落慶式を行うた。其本堂は入母屋造、庫裡は二階建、四注造、鼓樓は方形造で、何れも瓦葺であつた。大正二年六月、其筋の許可を受けて、明治天皇の天牌を奉安し、次いで樓門を起し、大正八年には、鐘樓を造立した。然るに不幸、大正十二年九月一日、大震災に罹り、一山を燒土と化した。翌十三年三月、假本堂を落成し、引續き隣地七百餘坪を境内に編入し、次いで庫裡を新築し、目下鐵筋コンクリート本堂再建の計畫中にある。
本尊
本尊は阿彌陀如來立像。
堂宇
現今の堂宇は、假本堂建坪七十五坪七合五勺、瓦葺。・庫裡建坪七十二坪六合三勺、二階建。・玄關八坪。及び納骨堂二坪四勺。である。
檀家
檀家は二千餘戸。
住職世代
開基本多興暎。前江戸淺草蓮光寺住職。嘉永元年當寺開基。明治天皇御東幸の際、拜謁を賜はつた。明治六年、自費を投じて横濱地藏坂を改修し、其功により、銀盃を下賜せられた。第一世興學。第二世興甫。第三世彰興。明治三十四年、本堂再建。同三十一年、寺有地を上地して、三ッ組木盃一基を賜はつた。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
太田山蓮光寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿 佛寺編」
参考資料
- 新編武蔵風土記稿