本多山蓮光寺|亀有の松寺、関東大震災に罹災し昭和2年当地へ移転
蓮光寺の概要
真宗大谷寺院派の蓮光寺は、本多山と号します。創建年代は不詳ですが、遠江国横須賀に創建、その後三河国安祥(安城)へ、慶長14年(1609)広闡庵了賢が江戸神田へ移転したと伝えられます。広闡庵了は、本多平八郎忠豊の養子で俗名を本多忠春といい、三河国碧南郡刈屋の領主だったといいます。その後明暦の大火(1657)に罹災し、広沢新田(西浅草)へ、文化3年(1806)下谷本願寺添地へ移転したものの、関東大震災に罹災し、昭和2年当地へ移転しました。
山号 | 本多山 |
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院号 | - |
寺号 | 蓮光寺 |
住所 | 葛飾区亀有1-25-31 |
本尊 | 阿弥陀如来立像 |
宗派 | 真宗大谷派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
蓮光寺の縁起
蓮光寺の創建年代は不詳ですが、遠江国横須賀に創建、その後三河国安祥(安城)へ、慶長14年(1609)広闡庵了賢が江戸神田へ移転したと伝えられます。広闡庵了は、本多平八郎忠豊の養子で俗名を本多忠春といい、三河国碧南郡刈屋の領主だったといいます。その後明暦の大火(1657)に罹災し、広沢新田(西浅草)へ、文化3年(1806)下谷本願寺添地へ移転したものの、関東大震災に罹災し、昭和2年当地へ移転しました。
葛飾区寺院調査報告による蓮光寺の縁起
はじめ遠江国横須賀の郷に創立され、のち三河国安祥の郷に移り、さらに慶長14年(1609)広闡庵了賢が江戸神田に再建した。了賢は野村越中守高勝の二男、本多平八郎忠豊の養子となって忠春といい、三河国碧南郡刈屋の領主であったが、東本願寺12世教如光寿の法弟となった。当寺は明暦3年(1657)の大火に罹り、広沢新田に移り、文化3年(1806)3月再び類焼して、同7年11月、江戸下谷の本願寺添地(のちの浅草北清島町)に転じ、さらに大正12年の関東大震火災に焼失し、仮本堂を建設したが、都市計画の実施に伴い、昭和2年現在地に移った。本堂は昭和13年の新築である。境内にはマツが50余本植えられているので、一般に<亀有の松寺>として知られている。(葛飾区教育委員会 葛飾区寺院調査報告より)
蓮光寺の周辺図