本牧山妙香寺。江戸時代には寺領10石の御朱印状
本牧山妙香寺の概要
日蓮宗寺院の妙香寺は、本牧山と号します。妙香寺は、弘法大師が創建した本牧山東海寺を、文永元年(1264)法印昌香が自身を日能に、寺を蓮昌山妙香寺に改めて日蓮宗寺院とし、大本山法華経寺第二祖中老僧日高を開山としたといいます。日英の代に中興、徳川家康が関東入国した天正19年(1591)には寺領10石の御朱印状を拝領していました。
山号 | 本牧山 |
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院号 | - |
寺号 | 妙香寺 |
住所 | 横浜市中区妙香寺台8 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
本牧山妙香寺の縁起
妙香寺は、弘法大師が創建した本牧山東海寺を、文永元年(1264)法印昌香が自身を日能に、寺を蓮昌山妙香寺に改めて日蓮宗寺院とし、大本山法華経寺第二祖中老僧日高を開山としたといいます。日英の代に中興、徳川家康が関東入国した天正19年(1591)には寺領10石の御朱印状を拝領していました。
新編武蔵風土記稿による本牧山妙香寺の縁起
(北方村)妙香寺
村の西の方なり、法華宗、下總國葛飾郡中山法華経寺の末、蓮昌山と號す、開山日高正和元年四月二十六日寂す、本尊三寶を安せり、寺領十石の御朱印は、天正十九年本牧の内にて賜れり、中興開山日英應永三十年八月十日寂す、相傳ふ古は眞言宗にて大寺なりしが、衰廢に至りければ、寺跡に教宗の梵刹を再建せしなりと。
鍾樓。正徳五年鑄造せし鐘を掛。
番神堂(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿 佛寺編」による本牧山妙香寺の縁起
妙香寺
位置及寺格
妙香寺は、本牧山と號し、中區北方町六百三十九番地にある。境内は千七百七十二坪。日蓮宗大本山下總國中山法華經寺の末寺で、寺格は緋金襴二等寺である。
沿革
寺記に云ふ「弘仁五甲午年、眞言ノ開祖空海弘法大師ノ創立ニシテ、其ノ稱ヲ本牧山東海寺ト云フ。本ノ本尊ヲ藥師如來トス。而シテ當寺有スル所ノ境内八町四方ニ及ビ、寺領亦百二十五町ノ多キヲ致シ、更ニ末寺ヲ有スルコト四十九箇寺ニ達ス。然ルニ文永元甲子年、法印昌香、偶〻日蓮上人ノ敎化スル所トナリ、遂ニ飜然法華ニ歸依シ、宗ヲ轉ジ衣ヲ更へ、名ヲ日能ト呼ビ、寺ヲ蓮昌山妙香寺ト改ム。(口碑ニ藥師ノ像、竝古文書類ハ此際紛失セリト云フ。)更ニ下總國東葛飾郡中山村大本山法華經寺第二祖中老僧日高ヲ推シテ始祖トシ、自ラ謙シテ第二祖ニ居ス。旣ニ此時ニ當テ末寺悉ク本郡堀ノ内寶生寺ニ轉屬シタリト云フ。寺領又悉ク沒セラル。應永二十年頃改宗ヨリ拾世ノ祖日英ニ至リ、堂宇壊頽頗ル荒廢ニ屬シ、境内寺領甚少ナキヲ慨シ、奮然力ヲ挽囘復活ニ强メ、以テ遂ニ寺領境内舊ニ復シ、末寺檀信ノ歸スルモノ多キヲ見ルニ至ル。蓋シ是レ當山中興ノ稱アル所以ナリ、云々。」新編武藏風土記稿も大略同說である。寺記は更に云ふ「天文年間、乃チ中興日英ヨリ第九祖日了ニ至リ、恰モ本堂別派不受不施ノ大法亂ニ際シ、寺領ノ證券遂ニ紛諍ノ間ニ失ヒ、末寺屬坊亦随テ離散スルニ至ル。是二於テ美觀漸ク衰へ、舊盛亦見ルベカラズ。夫レヨリ下リテ天正十九辛卯年、卽チ日英ヨリ十世ノ祖日現ニ至ルヤ、德川家ノ歸依スル所トナリ、新タニ本牧ノ地十石ヲ賜ヒ、以テ境内不入ノ證ヲ附セラル、ニ至ル。次デ寛文十子亥年、日威ナルモノアリテ、大ニ力ヲ復舊ニ致シ、堂宇亦莊嚴ヲ極ムト雖、更ニ不受不施ノ法亂ニ際シ、萎靡衰頽又舊時ノ觀ナキニ至ル。然ルニ十九祖日幸ニ及ビ、非常ノ奮勵ト非常ノ艱難トニ依リ、堂宇整然莊嚴美麗、初メテ復觀ヲ見ルモノアリ。爾來變遷ナク星霜殆ンド百有餘歲、遂ニ二十九世日相、法燈ヲ嗣グニ及ビテ、橫濱開港ニ際シ、當地ノ人口亦隨テ繁殖シ、檀徒大ニ增加ヲ極メ、寺觀益隆盛ヲ見ルニ至ル。是ニ於テカ更ニ山號ヲ本牧山ト改稱ス。降テ明治三十八年三月、三十二世日凝代ニ於テ、千葉縣中山法華經寺ヨリ、千葉縣匠瑳郡椿海村椿常福寺ヲ當寺末寺トシテ附與セラル。茲ニ寺格昇進シテ、中本寺格トナル、云々。」大正十二年九月一日の大震災に、本堂・淨行堂・番神堂は倒潰に及び、大黑堂は燒失に歸した。其後朞年ならずして復興の功を遂げたが、昭和二年一月十日、火を失して、不幸本堂・庫裡を灰燼となした。次で假堂を造立し、目下本堂を始め、諸堂宇再建の工事中で、全部の竣成は昭和六年の豫定であると。
本尊
本尊は一塔・兩尊・四菩薩・文珠・普賢・四大天王・不動・愛染、竝に宗祖日蓮大菩薩の各木像である。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
本牧山妙香寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿 佛寺編」
参考資料
- 新編武蔵風土記稿