佛海山天徳寺。東国八十八ヵ所霊場、横浜觀音三十三観世音霊場
佛海山天徳寺の概要
高野山真言宗寺院の天徳寺は、佛海山と号します。天徳寺の創建年代等は不詳ながら、元祿13年(1700)第九世榮賢法印の代に字宮原から当地へ移転したといいます。東国八十八ヵ所霊場43番、横浜觀音三十三観世音霊場17番、横浜弘法大師二十一箇所20番です。
山号 | 佛海山 |
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院号 | - |
寺号 | 天徳寺 |
住所 | 横浜市中区和田山1-1 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
佛海山天徳寺の縁起
天徳寺の創建年代等は不詳ながら、元祿13年(1700)、第九世榮賢法印の代に字宮原から当地へ移転したといいます。
新編武蔵風土記稿による佛海山天徳寺の縁起
(本郷村)天徳寺
年貢地、北方なり、佛海山と稱す、本尊不動、境内に飯綱権現の社あり。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿 佛寺編」による佛海山天徳寺の縁起
天德寺
位置
天德寺は、佛海山寶光院と號し、中區本牧町字天德寺七百十二番地にある。境内は四百九坪三合九勺、丘陵の半腹にある。市内增德院の末、寺格は十一等、市内觀音三十三所の第十七番の札所、叉、弘法大師二十一箇所の第二十番の靈場に數へられてゐる。
沿革
開基不詳。寛永十年二月十五日議定の關東古義眞言宗本末帳に、寶生寺の末寺と載せてある。元は字、宮原の海岸にあつたが、元祿十三年、第九世榮賢法印の代に、今の境内に移つた。本尊は不動明王、元祿十四年、脇士二童子造立。第十二世實城法印の代、寶暦年中に、堂宇再建。寛保年中、客殿造立。寶暦三年、庫裡造立。明治維新までは境内に飯繩權現を祀り、又、吾妻權現社・牛頭天王社の別當を兼ね、地藏堂をも進退して居た。明治の初年は無住であつたので、北方村東漸寺で兼帶され、明治七年に市内增德院の末寺となつた。同四十一年、本堂の增築を遂げたが、大正十二年九月一日の大震災に罹つて、堂宇は悉く倒潰した。其後、再建したのが今の本堂である。
本尊
本尊は不動明王の立像、高二尺八寸、弘法大師作と傅へられてゐる。脇士二童子の立像は、高一尺四寸、元祿十四年の造立で、體内に造像銘記がある。脇本尊は、地藏菩薩立像・如意輪觀音坐像・弘法大師像・阿彌陀如來像・聖觀音立像等である。
堂宇
今の堂宇は、本堂(間口四間、奥行五間、亞沿葺。)ばかりである。元の本堂は、寶暦年間の再建で、間口八間半、奥行六間半。明治四十一年、間口三間、奥行三間半增築。庫裡は寶暦三年の再建で、間口五間、奥行七間。關玄は間口奥行共一間半であつたが、何れも大震災に倒潰、今の本堂は震災直後の造立である。
境内佛堂
地藏堂は字宮原の本寺の舊跡にある。大正十四年中に廢し、本像を本堂内に安置してある。新編武藏風土記稿に、除地三畝と見える。本尊地藏菩薩は、彩色を施した木彫の立像である。享和四年鑄造の梵鐘があつたが、大正七年に本寺に移された。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
佛海山天徳寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿 佛寺編」
参考資料
- 新編武蔵風土記稿