公田皇女神社|横浜市栄区公田町の神社

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公田皇女神社|照玉姫を偲び文禄元年創建。

公田皇女神社の概要

公田皇女神社は、横浜市栄区にある皇女神社です。公田皇女神社は、文禄元年(1593)僧信永が、葛原親王の皇妃照玉姫が当地で亡くなり建てられた女臈塚のことを偲び、当社を創建したといいます。以来江戸期を通じ祀られてきましたが、明治42年公田神明社に合祀されたものの、大正2年当地近くに改めて祀り続け、昭和5年公田神明社より旧社地を買い戻し、昭和12年遷座したといいます。

公田皇女神社
公田皇女神社の概要
社号 皇女神社
祭神 照玉姫
相殿 -
境内社 -
住所 横浜市栄区公田町1530
祭日 -
備考 -



皇女神社の由緒

公田皇女神社は、文禄元年(1593)僧信永が、葛原親王の皇妃照玉姫が当地で亡くなり建てられた女臈塚のことを偲び、当社を創建したといいます。以来江戸期を通じ祀られてきましたが、明治42年公田神明社に合祀されたものの、大正2年当地近くに改めて祀り続け、昭和5年公田神明社より旧社地を買い戻し、昭和12年遷座したといいます。

新編相模国風土記稿による皇女神社の由緒

(公田村)
王之御前社
祭神詳ならず、(新編相模国風土記稿より)

境内掲示による皇女神社の由緒

照玉姫は葛原親王の皇妃で、往昔親王に従って東国に下ったが天長元年9月28日当地で死せられた。里人達は嘆き悲しみ、懇ろに葬り塚を造営した。この塚を皇の御前の塚又は、女臈塚と呼んで、永く姫の遺徳を慕っていた。文禄元年2月信永という僧侶が当地を訪れた際、姫の遺徳を知り、社を建立して其の霊を勧請したもので、又当時姫の侍女であった相模の局、大和の局の2人が姫の死後尼となり塚守となっていたが、相ついで両名とも死去した。里人は、これを姫の塚の傍に葬り、両塚明神として崇めたと伝えられるが、現在両塚の所在はあきらかではない。(以上皇国地誌による)
これは、今をさかのぼること400年前の事である。以来、私達の祖先は、10月1日を例祭日と定めささやか乍らお祭りを奉納していたが、明治42年7月に至り桂村公田村地内の小社4社が神明社に合祀され、皇女神社の地も神明社の所有となったが、当地の人々は尚姫への遺徳偲びがたく、大正2年原家(当時吉五郎)の家敷続きの山林の一角を借用仮社殿を造営して神明社より神体を分祀し、毎月1日、15日には必ず参拝し、又家々の喜びも悲しみも総てを神前に報告したものである。昭和5年7月に至り氏子12名が相寄り資金を放出して、金80円也で神明社現社地を買い戻し、昭和12年9月お社を現在地に遷したもので、其の間氏子は勿論、近隣からも信仰厚く、日清日露戦争近くは太平洋戦争の際は、多くの人々が願掛の為参拝した。
平成4年10月 氏子中(境内掲示より)


皇女神社所蔵の文化財

  • 栄区公田町出土の大型人面把手

栄区公田町出土の大型人面把手

この大型人面把手は、昭和四十年頃、この付近で発見されたものです。
縄文土器の口縁部に人面装飾を施した把手です。
頭部から首部までが残存し、現存寸法は高さ十六・五センチ、幅二十・五センチ、厚さ十六センチの中が空洞のものです。
だ円形の顔に目、鼻、口、耳、眉を明瞭に表現しています。目は切れ長で、吊り上がっています。鼻は丸く、上向きの鼻、口は小さめで、柳葉形に開いています。耳は環形で耳たぶが厚く眉は太く、髪は頭上でとがります。左右の目の下と右頬には直線的な刺突(棒のようなもので突いた)文様が、鼻の下には髭を模したような曲線的な)刺突文様が描かれています。
顔全体には赤い彩色が施されていた痕跡があります。興味を引くのは首飾りの着装表現で小型のリングに紐を通し、太めの首にぴったりと付いています。
背面は、後頭部の中央に環形と連鎖状の一体化した造作物が付いています。あたかも、髪を結い上げた形に見えます。また、円形と十字形を組み合わせた刺突文様が対称の位置に描かれ、うしろ髪を飾っています。
このような風貌を備えた人面の付いた土器は、縄文時代中期の前半に、山梨県や長野県などの甲信地方を中心として、関東地方西南部の地域にまとまって出現しています。しかし、同時期につくられた膨大な土器の量に比較すると、一遺跡で一、二例という極めて少ない出土で縄文土器の中でも特殊な存在であったことがうかがえます。
沸騰用具として使用された痕跡が認められる例があるので、この土器が実用品であったことは確かですが、なぜ人面装飾を施した把手を付けたのか、その理由は謎です。いずれにせよ縄文人の風貌を知る貴重な資料です。
現在は、神奈川県立歴史博物館に所蔵されています。(掲示板より)


公田皇女神社の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿