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小菅ヶ谷春日神社|横浜市栄区小菅ヶ谷の神社

小菅ヶ谷春日神社の概要

小菅ヶ谷春日神社は、横浜市栄区にある春日神社です。小菅ヶ谷春日神社の創建年代等は不詳ながら、柏尾川流域を経営していのは秀郷流藤原氏の名族、山内区首藤氏だったことから、平安時代の荘園成立期に、山内首藤氏により創建されたのではないかといいます。本郷地区(小菅ヶ谷、桂、公田、鍛冶ヶ谷、上郷、中野)の総鎮守として祀られていたものの、源頼朝が挙兵した際に山内首藤氏は平家方についたことから当社も次第に衰亡、その後永禄8年(1565)には地頭宇部松菊丸が再建、江戸期には小菅ヶ谷村の鎮守社として祀られたといいます。

小菅ヶ谷春日神社
小菅ヶ谷春日神社の概要
社号 春日神社
祭神 天児屋命、武甕槌命、経津主命、比売命
相殿 -
境内社 神明八幡合社、白山社、稲荷社、御嶽社
住所 横浜市栄区小菅ヶ谷3-57-17
祭日 例大祭9月第4日曜日
備考 -



春日神社の由緒

小菅ヶ谷春日神社の創建年代等は不詳ながら、柏尾川流域を経営していのは秀郷流藤原氏の名族、山内区首藤氏だったことから、平安時代の荘園成立期に、山内首藤氏により創建されたのではないかといいます。本郷地区(小菅ヶ谷、桂、公田、鍛冶ヶ谷、上郷、中野)の総鎮守として祀られていたものの、源頼朝が挙兵した際に山内首藤氏は平家方についたことから当社も次第に衰亡、その後永禄8年(1565)には地頭宇部松菊丸が再建、江戸期には小菅ヶ谷村の鎮守社として祀られたといいます。

新編相模国風土記稿による春日神社の由緒

(小菅ヶ谷村)
春日社
村の鎮守なり、永禄八年宇部松菊丸と云もの(按ずるに、【北條役帳】に、宇部左京亮、本郷公田村を領せしこと見ゆ、【役帳】は永禄二年の改なり、此松菊丸は果して左京亮の子なるべし、然れば當時の地頭なること知らる)再建と傳ふ、古は本郷六村の總鎮府なりしと云ふ、祭禮十一月十三日(鶴岡社人等来りて祭事を行ふ、)社地に古松あり(圍一丈四尺、)
末社。神明 八幡 白山 稲荷
別當龍光院。醫王山春日寺と號す、古義眞言宗(高野山慈眼院末、)永禄八年社と共に再建すと傳ふ、中興を宥傳と云(寶永四年七月八日寂す)
護摩堂(新編相模国風土記稿より)

神奈川県神社誌による春日神社の由緒

新編相模風土記稿に「春日社、村の鎮守なり、永禄八年宇部松菊丸と言ふ者再建と伝ふ、本郷六ケ村の総鎮守なりLと言ふ、祭札は十一月十三日、鶴岡社人等来りて祭事を行ふ」と見える。創建年代は更に古いと思われるが詳かでない。宇部松菊丸は当地地頭職であったと伝えられる。
本殿中宮は江戸末期の製作、四方総彫りの見事な社殿である。(神奈川県神社誌より)

「戸塚区郷土史」による春日神社の由緒

春日神社(小菅谷町宮ノ下二七〇三番地)
祭神は天児屋根命・武甕槌命・経津主命・比売命の四柱。当社は永禄八年(一五六五)地頭宇部松菊丸の再建と伝え本郷六村の総鎮守として、古くから崇敬をうけた神社であることからすれば、創建年代は、かなり古いことと思われる。なお、「相模風土記」記載の本郷公田村領主宇部左京亮の子が松菊丸であり、境内に「文化三年十一月」在銘の鳥居がある。
神木 古松 周囲四メートル余(「戸塚区郷土史」より)


境内掲示による春日神社の由緒

春日神社と龍光院(旧小菅ヶ谷村社)
春日神社は、古く本郷六村の総鎮守であったと伝えられ、天児屋根命外三柱の神を奉斎し、末社には、神明(桂・公田)八幡(鍛冶ヶ谷)、白山(上郷)、稲荷(中野)の本郷各村の村社がある。
「新編相模風土記稿」によれば、永禄8年(1565年)に、小田原北條氏の公田の地頭職であった宇部左京亮の子息、宇部松菊丸が再建したといい、社伝もこれを伝えている。しかし、春日神社の総社である奈良の春日大社は、奈良時代初期の創建で、藤原氏の氏神と祖先神が祀られており、平安時代を通じて藤原氏の拡大発展とともに全国に流布され、藤原一族支配の地域神として、村社・鎮守・総鎮守となったという。本郷の地は平安時代、山之内荘本郷といわれた。山之内荘は柏尾川流域を経営した秀郷流藤原氏の名族、山内区首藤氏の荘園である。本郷は奈良朝尺度郷の中心地であり、山之内荘の中心的穀倉地帯であることを考えると、この春日神社は、山内首藤氏により創建されたとするのが自然である。
山内首藤氏は荘園領主ばかりでなく、在地武士団でもあり、源義家以来、源氏と深く関係していた。山内俊道とその子俊綱は、保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)の折、源義朝につかえ、戦死している。源頼朝の挙兵の折は俊道の次男経俊が頭領であり、当然頼朝を援けると思われたが、頼朝方弱小とみて平家方に味方した。このため後に鎌倉に入府した頼朝は経俊を捕らえ、山之内荘を土肥実平にあずけ、後に和田義盛に与えた。このため、崇敬の中心山内首藤氏を失った春日神社は、次第に衰亡したものと考えられる。戦国時代の末、新しく小田原北条氏から「本郷公田」の領主に任ぜられた宇部氏は、周辺に威勢を振るう政策の一つとして、春日神社とその別当寺の龍光院(明治に廃寺となる=現在は、春日神社社務所)を再建し、その昔の総鎮守の力を示すため、当時の本郷各村の村社を末社として記録したと考えられる。要するにこの春日神社は伝えられるよりは、はるかに古い平安時代の創建と考えられる。(境内掲示より)

小菅ヶ谷春日神社の周辺図