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菅谷山長光寺。横浜市栄区小菅ヶ谷にある浄土真宗本願寺派寺院

長光寺の概要

浄土真宗本願寺派寺院の長光寺は、菅谷山醫王院と号します。長光寺は、伊東九郎裕清の子道意が、砥並山の戦で討死した父の菩提を弔うため、当地に天台宗寺院として創建したといいます。その後、親鸞上人の御旧跡巡拝のため東国に下向していた本願寺三世覚如が当寺に止宿、当寺の住持了諦が浄土真宗寺院に改め現山寺号としたといいます。一時荒廃に帰していたのを僧善立(正保2年寂)が寛永12年(1635)に中興、塔頭良雲坊を擁していたといいます。

長光寺
長光寺の概要
山号 菅谷山
院号 醫王院
寺号 長光寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 横浜市栄区小菅ヶ谷4-1-27
宗派 浄土真宗本願寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



長光寺の縁起

長光寺は、伊東九郎裕清の子道意が、砥並山の戦で討死した父の菩提を弔うため、当地に天台宗寺院として創建したといいます。その後、親鸞上人の御旧跡巡拝のため東国に下向していた本願寺三世覚如が当寺に止宿、当寺の住持了諦が浄土真宗寺院に改め現山寺号としたといいます。一時荒廃に帰していたのを僧善立(正保2年寂)が寛永12年(1635)に中興、塔頭良雲坊を擁していたといいます。

新編相模国風土記稿による長光寺の縁起

(小菅ヶ谷村)
長光寺
浄土眞宗(西六條本願寺末)菅谷山醫王院と號す、本尊彌陀(恵心作、長二尺五寸、)古は天台宗にて醫王院と號す、開山を道意と云ふ(寺傳に、意は伊藤九郎祐清の子にて祐清壽永の亂、砥並山の一戦に打死せし後、母に養はれ豆州に在り後當所に移住せしが、父祖の菩提を弔んが爲僧となりて台刹を建て、父が崇敬せし薬師を本尊とすと云へり、其他附會せしこと多くして、寺傳は信じ難し、)其後本願寺三世覺如宗祖の舊迹巡覧ありて當所止宿の時住職了諦其教示を聴て當宗に歸依しやがて改良せり、此時より今の山寺號を稱す、後破壊地となりしが寛永十二年僧善立(正保二年五月三日寂す)中興すと云ふ、舊は良雲坊(開基明見寛文十一年十一月三日寂す)と云へる支院ありしが今は廢せり、
【寺寶】
阿彌陀畫像一軸(親鸞筆、)
光壽石一顆(同筆なり石面に光壽の二字を書せり)
六字名号一軸(蓮如筆、)
正観音一軀(舶来の物にて伊藤祐清の念持佛と云ふ、)
長刀一振
鞍一掛(此二品は伊藤氏所持の具と言傳ふ、)
鐘樓。鐘は寶暦八年再鑄する所なり
薬師堂。文禄元年建つ、今は廢して本尊(文覺作、長六寸八分、)は本堂に移し安ず、これ改宗以前の舊本尊なりと云ふ(新編相模国風土記稿より)

「戸塚区郷土史」による長光寺の縁起

長光寺(小菅谷町一三三四番地)浄土真宗西本願寺派
菅谷山医王院と号し、本尊は阿弥陀如来(恵心作、長二尺五寸)。現山門にかかげてある「菅谷山」の額は浄土宗増上寺大僧正冏鑑の書である。古は天台宗にぞくし、開山は道意。寺伝によれば、道意は伊東九郎裕清の子で、父裕清は寿永の乱に従軍、砥並山の一戦のため討死したが、その子道意は一時母に養われ豆州におった。その後幾年かを経て当所に移住し、僧となり、父祖の菩提を弔わんがため、天台宗の寺を建て、年来父が崇敬していた薬師如来を本尊としたのが、当寺草創のはじめであると伝えている。其の後本願寺三世覚如は、親鸞の御旧跡巡拝のため、東国御下向の折り当所に来住し、その際たまたま止宿し住持了諦は覚如より、真宗の教義を聞き、以来浄土真宗に帰依し、改宗するようになったという。越えて寛永十二年一時荒廃に帰していたのを僧善立が中興(相模風土記)した。(「戸塚区郷土史」より)


いいお墓

長光寺の周辺図