増上寺|浄土宗大本山、港区芝公園にある浄土宗寺院

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三縁山増上寺|浄土宗七大本山、徳川将軍家の菩提所、関東十八檀林

増上寺の概要

浄土宗寺院の増上寺は、三縁山広度院と号し、浄土宗七大本山の一つです。増上寺の創建年代等は不詳ながら、宗容大僧都が真言宗光明寺と称して建立、麹町貝塚にあったといいます。明徳4年(1393年)に、聖冏上人の教化を受けた酉譽上人聖聡が真言宗光明寺を浄土宗に改め、三縁山増上寺と改号して開山したといいます。日比谷へ移転を経て、慶長3年(1598)当地へ移転、江戸時代には寛永寺と共に徳川将軍家の菩提所となり、寺領10745石の御朱印状を拝領、関東十八檀林の筆頭として隆盛しました。江戸三十三観音霊場21番札所です。

増上寺
増上寺の概要
山号 三縁山
院号 広度院
寺号 増上寺
住所 港区芝公園4-7-35
宗派 浄土宗
本尊 -
葬儀・墓地 増上寺大殿、光摂殿、慈雲閣
備考 浄土宗江戸四ヶ寺触頭、江戸三十三観音霊場20番札所


※御朱印画像はいけみずさんよりの寄贈


増上寺の縁起

増上寺の創建年代等は不詳ながら、宗容大僧都が真言宗光明寺と称して建立、麹町貝塚にあったといいます。明徳4年(1393年)に、聖冏上人の教化を受けた酉譽上人聖聡(千葉氏胤の子。母は新田左中将義貞の娘。永享12年寂、後に浄土宗第八祖)が真言宗光明寺を浄土宗に改め、三縁山増上寺と改号して開山したといいます。日比谷へ移転を経て、慶長3年(1598)当地へ移転、江戸時代には寛永寺と共に徳川将軍家の菩提所となり、寺領10745石の御朱印状を拝領、関東十八檀林の筆頭として隆盛しました。

「芝區誌」による増上寺の縁起

増上寺 芝公園第二號地一番
近世以降芝の名が聞えてゐるのは増上寺の爲めだと言つても過言ではない。いはば芝に於ける宗教文化の中心で、百七十箇寺の中最大の寺院である。浄土宗の關東總本山として所謂十八檀林(僧源譽の時關東浄土宗の大寺院十八箇所を檀林と定めた)の上に位し、三縁山廣度院と號する。
本寺の創建年代は詳かでないが、往時、麹町貝塚にあつた頃は、光明寺といつて、真言宗であつた。此増上寺の前身である光明寺の開祖は宗容大僧都と傳へられ、僧都は白山をはじめ北國東國を遍歴して各所に梵閣を建てた。光明寺の其一つで、七堂伽藍の整美した一大靈場であつたが、數度の戦争に或は陣所となり、或は破壊せられて、久しい間荒れるに任せてあつた。しかも教燈は曾て消えず、建武頃までに數十代を経たが、酉譽上人聖聡(初め胤明といふ、桓武天皇の後胤千葉介氏胤の子。母は新田左中将義貞の女。永享十二年寂)之を再興し、北朝至徳二年浄土宗に改め、明徳四年始めて増上寺と號するに至つた。之に關して「江戸名所記」は、
酉譽は、もとこれ真言の宗派を汲んで、秘密金剛の妙用をあふぎ、遍照舎那の實際をもとめ、しかもまた兼ては浄土念仏の風儀を學して、主心即一の窓のまへには、五念四修の日をもてあそび、事理倶頓のはやしの中には實報受用の花を詠じて、武州江府の貝塚の台光明寺に住せらる。そのころをひ人王百一代後小松院の御宇なり。時に至徳二年きのとの丑の夏光明寺にして論議あり。酉譽上人能化として所化のともがら問者答者たがひに法門の扉をひらき、疑義の關をくだかんとす。爰に聖冏和尚は、托鉢の體にて、かの講席法門の場に立て、つらつらこれを聞て、莞爾と笑て立かへる。酉譽上人此よしを見て、みづから座を立て、跡を追てたづね行給ふに、浅草の邊にして追つめ、つゐにその笑をふくみて退く事を問給ふに、冏公その故をこたへらる。たがひに問答ありて、浄土の奥義をのべ給ふに、酉譽上人ふかく法味をあぢはい、豁然としてさきの悪念名刹の鋒鋩を折て、たちまちに真言宗をすててひとへに浄土宗に歸し、すなはちわが寺光明寺をあらためて、三縁山増上寺と號し、聖冏上人の弟子となりて、一心金剛の血脈をうけ給ひけり。
と記してゐる。「三縁山志」には次ぎの如く書いてある。
人皇百一代後小松院御宇至徳二丑年酉譽上人浄土宗に改め、年廿八歳にして、明徳四酉年十一月當山を興隆し、般舟蓮社の談法論場とし、四方の雲水をあつめ、輪下に講演し、自他宗の碩徳と招請し、不斷法問の伽藍とす。
斯くの如くにして三縁山廣度院増上寺は誕生し、其開山を大蓮社酉譽上人聖冏和尚とする。さて此三縁山増上寺の名称は如何にして起つたかといふに、善導大師の「観経疏定善義」二十八に由来してゐる。即ち同書に「衆生起行。口常稱佛。佛即聞之。故名親縁也。」とあり、又「衆生願見佛。即佛應念。現在目前。故名近縁也。」とあり、更に「衆生稱念佛。即除多功罪。故名増上縁也。」とあつて、親縁、近縁、増上縁を説いてゐるが、それから寺名が出たのである。其後約二百年を経て、天正十一年、第十二世中興の開基貞蓮社源譽上人存應和尚(観智國師、俗称由木、元和六年寂)の時、徳川氏一門の菩提寺となつた。此理由に就いて「三縁山志」から抄記すれば、永禄の初め存應和尚は諸國の知識に遍参し、三河國に至つて、智徳院慈行宗門の英匠として聞えた大樹寺の登譽上人に随従して、三、四年の間侍座聴法せられたが、其時家康は存應の行状解慧が卓然として群を抜いてゐるのを聞き、小田原陣の時之を引見して、面り其人物のすぐれてゐるのを見て、敬慕の念措く能はざるものがあつた。然るに天正十八年江戸に入つて、寺は増上寺、住持は源譽といふ嘉名であること、開山が新田に縁のあること、三縁山といふ山號の三河に縁のある山といふ意に採れることなどに興味を牽いたのみならず、親氏、泰親、信光と代々信仰の篤い宗門であるところから、菩提寺を當山に定めたといふことである。
其後増上寺は火災に逢て一旦日比谷邊りに移されたが、慶長三年八月再び移轉して、現在の地に巨刹を構ふる事になつた。何故に芝の地に遷されたか。其理由は明かでないが、憶ふに、増上寺は将軍家の菩提所なるが故に、災害に罹り易い市街地よりも、幽邃閑寂で佳景に富み、且つ江戸城にも近い地を選んだものと思はれる。諸堂の造營の竣成したのは慶長十年であるが、其宏壮は寛永寺に亞いだ。其門は赤門又は御成門と言ひ、西北角の一門は、涅槃門又は黒門と、西南の棚門は赤羽門と稱した。しかし、現今はいづれも原状をとどめてゐない。前門の内更に山門あり、其内に本堂があつたが、本堂は明治六年二月大教院となり、同年十二月三十一日耶蘇教信者の放火に罹つて、本堂鐘楼共に烏有に歸した。十二年再建に着工し三十年六月ほぼ落成したが、四十一年再び火災に罹り、現本堂は此後に再築したものである。略〃竣工してはゐるが、内陣などはまだ完成してゐない。本堂はもと南靈屋入口の廣場にあつたが、此火災以後現在の位置に還されたものである。本堂正面に掲げてある「増上教寺」の扁額は一品有栖川熾仁親王殿下の書である。空に聾える甍の波、抱へきれぬ巨柱の林、其堂宇の輪奐は帝都に於いても有数である。此處には浅草寺の如き繁華雑沓はないが、木の間に聞ゆる読経の聾や木魚の音が日ねもす絶ざる参詣者に随喜の涙を流させ、法悦に浸らせる浮土の境地をつくってゐる。
曾ては徳川氏の歸依深く、方丈領千五百石、隠居料二百石、靈舎料九千四十五石を給され、其格式は「蠢餘一得四集」に、「慶長四年巳亥。勅許著紫衣。十三年戊申勅許常紫衣。爲勅願所。貞享三年丙寅二月二十四日、方丈最前は御玄關迄雖爲乗輿。向後於中御門下輿可仕旨被命」とある通りである。境内に八十餘宇の學寮、五十餘宇の子院があつたが、次第に合併廃毀して、今は雲晴院天光院、源寶院、池徳院、花岳院常照院源流院、源興院、廣度院、浄運院、安養院、観智院常行院、佛心院、大眼院、妙定院寶珠院、通元院、天陽院、威徳院、日窓院、華養院等、若干を存してゐるのみである。(「芝區誌」より)

増上寺所蔵の文化財



増上寺の周辺図


参考資料

  • 「芝區誌」