正安寺。横浜市栄区長沼町にある臨済宗円覚寺派寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

長沼山正安寺。親鸞上人自刻の阿弥陀如来像、親鸞鎌倉入り草鞋ぬぎの寺

正安寺の概要

臨済宗円覚寺派寺院の正安寺は、長沼山と号します。正安寺の創建年代などは不詳ながら、かつては天台宗寺院で能満寺と号していたといいます。北条泰時の招きにより浄土真宗宗祖親鸞上人が鎌倉に滞在した際、親鸞上人は当寺に止宿、住持浄運が弟子となり、浄土真宗寺院に改めたといいます。戦国時代に、小田原北条氏は浄土真宗を弾圧、当寺は鎌倉円覚寺に救済を求め、永禄4年(1561)臨済宗に改めると共に、寺号を正安寺と改めたといいます。当寺の阿弥陀如来像は、親鸞上人が当寺滞在時に自刻したものだと伝えられ、また親鸞鎌倉入り草鞋ぬぎの寺として知られたといいます。

正安寺
正安寺の概要
山号 長沼山
院号
寺号 正安寺
本尊 聖観世音菩薩像
住所 横浜市栄区長沼町636
宗派 臨済宗円覚寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



正安寺の縁起

正安寺の創建年代などは不詳ながら、かつては天台宗寺院で能満寺と号していたといいます。北条泰時の招きにより浄土真宗宗祖親鸞上人が鎌倉に滞在した際、親鸞上人は当寺に止宿、住持浄運が弟子となり、浄土真宗寺院に改めたといいます。戦国時代に、小田原北条氏は浄土真宗を弾圧、当寺は鎌倉円覚寺に救済を求め、永禄4年(1561)臨済宗に改めると共に、寺号を正安寺と改めたといいます。当寺の阿弥陀如来像は、親鸞上人が当寺滞在時に自刻したものだと伝えられ、また親鸞鎌倉入り草鞋ぬぎの寺として知られたといいます。

新編相模国風土記稿による正安寺の縁起

(長沼村)
正安寺
臨済宗(鎌倉圓覺寺末)長沼山と號す、本尊三尊彌陀(中尊三尺三寸、脇士各一尺八寸、共に親鸞作、彌陀像に善信と刻し、華押を題す、)古は天台宗にて能満寺と號す、親鸞鶴岡にて蔵經校合の時止宿せしに住僧月應彼宗に歸依し改宗すと云、其後廢蕪せしを士雲再造して禅刹となし、今の寺號に改む、故に今雲を開山と稱す(雲は、建武二年十月七日卒、)(新編相模国風土記稿より)

「戸塚区郷土史」による正安寺の縁起

正安寺(長沼町六三六番地)臨済宗
当寺は鎌倉円覚寺末で、長沼山と号し、本尊は阿弥陀如来(親鸞作)。開創の当初は天台宗で、能満寺といったが、貞永元年(一二三二)八月親鸞が一夜の宿をとられ布教されたのが契機で、住持の浄運は親鸞の弟子になった。以来、当寺親鸞鎌倉入り草鞋ぬぎ寺として、天台宗を改め真宗の寺となしたという。親鸞はここにおること七日、八日目の朝常盤の宝性寺へ出発されたが、此の寺におった親鸞はここで彼の著書である「教行信証」に手づから阿弥陀如来の像を彫られたといい、現在当寺に安置されている本尊がそのとき彫刻されたものであると伝えている。その後永禄四年(一五六一)小田原の北条氏康は一向宗の弾圧を命じたが、その暴令に驚いた能満寺は鎌倉円覚寺に救いをもとめ、鎌倉円覚寺の末寺となると共に住持海弁坊も禅僧となり正安寺と改称し、氏康の難をのがれることができたという。天保九年三月十五日、京都西本願寺の門主は親鸞とのよしみを聞き、東下の折り当寺に参詣し、本尊を開扉した時に、金壱枚を寄進されたという。
名木 伝親鸞お手植えの槇 周囲一.五メートル(「戸塚区郷土史」より)

境内掲示による正安寺の縁起

長沼山と号し、開創の年代は不詳。当初は天台宗で能満寺といったという。貞永元年(1232年)8月親鸞上人が一夜の宿をとり布教したことにより、その学識に傾倒した当時の住持浄蓮は弟子となり、以来親鸞鎌倉入り草鞋ぬぎの寺として、天台宗を改め浄土真宗となったと伝えられている。
親鸞はここに7日間いて阿弥陀如来像を彫ったといい、現在当寺に安置されている本尊がそれであると伝えられ、衣の袖に「善信」と親鸞の別名がある。また、境内には親鸞聖人お手植の槙と称する古木もある。
その後、永禄4年(1561年)小田原の北條氏康は一向宗(浄土真宗)を弾圧したため、能満寺は鎌倉円覚寺に救いを求め、円覚寺の末寺となると共に住持の海弁房も禅僧となり、正安寺と改称し、破壊をまぬがれたと伝えられている。その後、弾圧は解かれ、周辺の浄土真宗は帰宗したが、正安寺は臨済宗のまま今日に至っている。しかし浄土真宗本願寺派では、親鸞由緒の寺として、本願寺門主が幕府に参向の折は必ず立ち寄るのを常とした。明和6年(1769年)3月5日に金子千疋を、天保9年(1838年)3月15日には銀1枚を本願寺門主が寄進した寄進札が現存しており、また寛政4年(1792年)に江戸築地本願寺の講中が建てた石碑も現存している。(境内掲示より)


正安寺所蔵の文化財

  • 木造阿弥陀如来及び両脇侍立像(横浜市指定有形文化財)

木造阿弥陀如来及び両脇侍立像

来迎印を結ぶ中尊阿弥陀如来立像に、両手で蓮台を捧げ持つ左脇侍観音菩薩立像と、合掌する右脇侍勢至菩薩立像がしたがう三尊像です。阿弥陀三尊が往生者の前に来迎する姿を臨場感ゆたかに表現したこの形式は、鎌倉時代初期に浄土教が興隆するなかで完成し、以後広く普及したものです。
この三尊像は鎌倉時代後期、一三〇〇年前後の製作とみられ、繊細な作風や現実感あふれる表情などには鎌倉地方彫刻の特色が顕著であり、旧鎌倉郡に属するこの地域に、造像当初から伝来したものと推定されます。
すぐれたできばえにくわえ、一分補修があるものの、表面の漆箔も製作当初のものを残すなど、保存状態も良好です。(横浜市教育委員会掲示より)

正安寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿