蓮昌山妙光寺。横浜瀬谷八福神の大黒天
妙光寺の概要
日蓮宗寺院の妙光寺は、蓮昌山と号します。妙光寺は、白雉3年(652)に明光比丘尼が建てた庵を開基とするといい、大同年間(806〜810)に辨通が一寺に成して天台宗福昌山明光寺と称したといいます。弘安5年(1282)日蓮上人が身延山から池上(後の池上本門寺)へ向う際、当寺に立ち寄り、当寺住職文教は教化され改宗、寺名を蓮昌山妙光寺と改めて、日蓮上人を開山としたといいます。横浜瀬谷八福神の大黒天です。
山号 | 蓮昌山 |
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院号 | - |
寺号 | 妙光寺 |
住所 | 横浜市瀬谷区上瀬谷町8-3 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 横浜瀬谷八福神の大黒天 |
妙光寺の縁起
妙光寺は、白雉3年(652)に明光比丘尼が建てた庵を開基とするといい、大同年間(806〜810)に辨通が一寺に成して天台宗福昌山明光寺と称したといいます。弘安5年(1282)日蓮上人が身延山から池上(後の池上本門寺)へ向う際、当寺に立ち寄り、当寺住職文教は教化され改宗、寺名を蓮昌山妙光寺と改めて、日蓮上人を開山としたといいます。当寺の梵鐘は、物部氏の一人守光が正中2年(1325)鋳造した梵鐘で、恩田萬年寺(江戸時代既に廃寺)にあったものを山田伊賀入道経光が当寺に寄進したもので、神奈川県の重要文化財に指定されているといいます。
新編相模国風土記稿による妙光寺の縁起
(瀬谷村)妙光寺
蓮昌山と號す、法華宗武州池上本門寺末、開基妙光比丘尼、本尊三寳を置く。門外に高祖大師御一宿霊地と題せし石標あり、按ずるに弘安五年九月、日蓮甲州身延山を出て武州池上に至るの路次、當所に止宿ありし事注画讃に見えたり。曰、弘安五年九月八日、出身延澤云々、十七日瀬谷、十八日入于武蔵國荏原郡千束郷池上村云々。當寺即其舊蹟なるべし。
鐘楼。鐘は舊武州都筑郡恩田村萬年禅寺、今廃寺となり、寺號は小名に残れり、の寳器にて正中二年の鋳造なり、後典物となりしを、當郷の住人山田伊賀入道経光(按ずるに、今境川の対岸、高座郡深見の属に、経光の城蹟存せり、盡川流変遷して、彼郡に属せしなるべし)と云もの是を得て宝徳四年當寺に寄進す。事は銘文に詳なり。曰、武州恩田霊鷲山松柏萬年禅寺者、行基菩薩草創渉歳時也久矣、招提既為大士之建、寺基又為勝概之霊区、茲者(以下中略)(新編相模国風土記稿より)
横浜市教育委員会文化財課掲示による妙光寺の縁起
この寺は縁起によると、はじめ孝徳天皇の白雉3年(652)に明光比丘尼が建てた庵で明光が亡くなり、その後、大同年間(806〜810)に辨通が天台宗福昌山明光寺と称して寺にしたといわれています。
弘安5年(1282)9月17日に日蓮上人がここに一泊し、その寺の住職文教は、教化をうけて改宗し、寺名も蓮昌山妙光寺と改め、日蓮上人を開山とし、自らは二世となりました。
宝徳4年(1452)、相州瀬谷郷に住んでいた山田伊賀入道経光が大檀那となって、正中2年(1325)鋳造された武州恩田(緑区恩田町)の萬年寺の梵鐘を寄進しました。この梵鐘は、中世の関東地方で活躍した鋳物師の物部氏の一人守光の作で、神奈川県の重要文化財に指定されています。
境内には、明光比丘尼の開基堂、江戸時代、瀬谷村に采地を賜った鷹匠長田白政の墓碑があります。(横浜市教育委員会文化財課掲示より)
妙光寺所蔵の文化財
- 妙光寺の梵鐘(神奈川県指定重要文化財)
妙光寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿