街山八幡社|新田義貞の家嫡・義宗が護持していた八幡大菩薩の神像を奉祀
街山八幡社の概要
街山八幡社(つじやまはちまんしゃ)は、横浜市戸塚区にある八幡社です。街山八幡社は、新田義貞の家嫡・義宗が護持していた八幡大菩薩の神像(延朗上人の作)を霊水池のほとりに奉祀して応永年間(1394-1427)に創建、天保14年(1843)に山上から当地へ遷座したといいます。江戸時代には矢部町の鎮守社として祀られ、明治初年村社に列格したといいます。
社号 | 八幡社 |
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祭神 | 誉田別命 |
相殿 | - |
境内社 | 神明社、梅園稲荷社 |
住所 | 横浜市戸塚区矢部町1003 |
祭日 | 例大祭9月15日 |
備考 | - |
八幡社の由緒
街山八幡社は、新田義貞の家嫡・義宗が護持していた八幡大菩薩の神像(延朗上人の作)を霊水池のほとりに奉祀して応永年間(1394-1427)に創建、天保14年(1843)に山上から当地へ遷座したといいます。江戸時代には矢部町の鎮守社として祀られ、明治初年村社に列格したといいます。
新編相模国風土記稿による八幡社の由緒
(矢部町)八幡宮
鎮守とす、神體銅像、長一寸八分、延朗作と云ふ。例祭九月十六日、本覚院持。
末社。神明、稲荷。(新編相模国風土記稿より)
「戸塚区郷土史」による八幡社の由緒
当社は元街山八幡と称し、誉田別命を祭祀している。往昔落武武者一騎が、天覚院(旧別当築山家の祖)を訪ずれ、一躰の神像をとり出し、「これは新田義宗公の守本尊である」と言い置き去った神像を、応永年間に至り地頭竹下小次郎が霊水池の上に勧請奉祀したのが、創立のはじめであると伝えている。享保二年四月社殿を新築し、安永三年九月内外両殿を修復したもののごとく、享保二年の棟札には「別当良宝院、矢部村名主河原四朗左衛門、大工伝左衛門」の名が見え、安永三年の棟札には「名主河原五郎左衛門、同七左衛門、年寄脇坂武左衛門、鎮守別当本覚院阿闍梨慶山法印」の名を記している。その後天保十四年九月、別当本覚院教山の代に、名主河原五郎左衛門が願主となり、山上に社殿を遷座して再建するとともに、旧社地には配郷に鎮座してあった神明社を遷宮して末社としたという。安政二年九月末社蚕神を建立、明治初年村社に列せられているところをみると、当地に養蚕が行われるようになったのは、このころのことであったろう。現社殿は昭和七年の改築。(「戸塚区郷土史」より)
神奈川県神社誌による八幡社の由緒
応永年間の勧請とも伝えるが創立年代は明らかでない。新田義貞の家嫡・義宗が護持していた八幡大菩薩の神像(延朗上人の作)を、最初霊水池のほとりに奉祀したもので、天正五年の記録には「谷部鎮守街山八幡宮」とある。後享保二年に社殿を新築、安永三年には内外両殿を修理した。
天保十四年九月現在地に社殿を建てて山上から遷座し、旧社地には神明社をおいて末社とした。安永三年及び天保十四年の棟札がある。(神奈川県神社誌より)
境内本覚院不動尊について
本院は江戸中期1648年築山氏が修行し院号を本覚院とした。
明治維新後築山氏は還俗して街山八幡社神職に転した。
本尊不動明王は一時檀徒に保管され、昭和4年9月有志により小堂を造立し本尊を安置した。
尚、高座郡吉岡村龍岡寺の配下である。
本尊は中央の木彫座像
現不動堂は昭和55年に改修工事が行われた。
例祭は1月28日、5月28日、9月28日 年3回雲林寺 住職 北見 様の供養で行われる。(境内掲示より)
境内社梅園稲荷社御由緒について
祭神 烏帽子直垂御霊体
創建不詳
伝ふ古は字峰に鎮座せられしと年号不詳蔵坪山六二八番地七坪の地に遷宮せらる。
此の蔵坪の地名は徳川時代に穀倉在りしより出でしものならん
享保年間〜八代将軍吉宗公頃久二郎なる人此の地に住すとあり
氏子柴田竹次郎の口ひによれば文化の頃ウメ女なる寡婦住す
婦は常に稲荷を崇敬し深く祈願し霊験を授けらる
ウメ女大いに喜びしも其儘に過ごせしに或夜祭神現われ其の不法を起る
此の時の姿は烏帽子直垂の御霊体なりしとゆう。婦は大いに驚き此の旨を名主河原四郎左衛門に告ぐ。名主は有力者成宮茂平治と計り一同を集め協議を上中組の祭神と崇め奉る
按ずるに当地に深き御縁の武家を祭神と仰ぎしものならん。
殊に勝負事には霊験著しと今に伝ふ
余は幼少の頃翁に肩を叩かれつつ常に其の霊験につきて聞く所あり
以降明治十七年頃迄祭典の際は山麓を流るる大久保堀より社前迄はのぼり両側に建ち並び誠に荘厳なりしとゆう。
之氏子が如何に敬神の念深かりしかを立証するものなり。
其後社は御遷宮あり。之の由緒深き蔵坪山も時世の進運に伴い土地発展し何時しか山形改まるに至る。(境内掲示より)
街山八幡社の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿